徳川吉宗というと、いわゆる享保の改革を成し遂げ、緊縮財政を敷き、新田開発、殖産興業で経済力の強化を図りました。
このため、江戸幕府の財政は立て直され、吉宗は徳川家中興の祖として、名君の名をほしいままとしました。
しかし、この吉宗には、噂される黒いエピソードがあります。
吉宗は、徳川御三家の一つ紀伊藩の藩主・徳川光貞の四男として生まれました。
このため、本来であれば、紀伊藩主にすらなれない境遇でしたが、多くの人物の不可解な死が重なって、藩主となり、その後は将軍にまでなってしまったのでした。
今回は、この徳川吉宗のお話について御案内します。
★徳川吉宗の都合の良い身内の死で紀州藩主に
吉宗の周囲の人が次々と死亡していったのは、宝永2年(1705年)からでした。
5月に長兄で紀伊藩主・徳川綱教(つなのり)が42歳で亡くなってしまいました。
そして、その3か月後には、父・光貞が、更に1か月後には三兄・頼職(よりもと)までもが急死してしまいました。
二兄は、早くに亡くなっていたため、吉宗は4か月余りの間に、アッという間に紀州藩主となりました。
父・光貞は、80歳の高齢でしたが、残る二人の兄の死は、突然であったこともあり、吉宗に疑惑の目が向けられました。
★次期将軍候補も徳川吉宗の都合が良いように死んでいく
この後も吉宗に対する疑惑は続きます。
次の将軍の最有力候補とされていた尾張藩の四代目藩主・徳川吉通の死も不可解なものがあり、吉宗がかかわっていたという説もあります。
正徳2年(1712年)10月、6代将軍・徳川家宣(いえのぶ)が急死します。
その子・家継がわずか5歳にして7代将軍となりましたが、家継も病弱で無事に成長する可能性は低いと思われたため、早くから次期将軍候補に注目が集まっていました。
その最有力候補とされたのは、尾張藩の四代目藩主・徳川吉通でした。
吉通は、11歳で藩主となり、若年であったため叔父の松平義行が藩政を補佐しましたが、林業の改革に挑むなど、やる気に溢れた藩主でした。
その吉通が正徳3年(1713年)7月に食事後に血を吐いて苦しみ亡くなってしまいます。
当時、江戸の市ヶ谷にあった尾張藩邸で、夕食をすませた後、悶絶して死亡しました。
若干25歳でした。
しかし、この吉通の死には疑問点が多いと言われています。
食事の後に悶絶したことに加え、医者がそばについていながら、適切な手当てをされた形跡がないのでした。
これらの状況において、さらに、彼が次期将軍候補であったこともあり、毒殺されたのではないかという噂が当時は出回りました。
その後、吉通の3歳の息子・五太郎が藩主として就任しますが、五太郎も就任後わずか3か月で急死しました。
★徳川吉宗は超強運の持ち主というだけか
こうして、自分の上位候補の相次ぐ死亡で、とうとう将軍にまでなってしまった徳川吉宗ですが、彼は単に超強運の持ち主というだけだったのでしょうか?
結局、兄2人の死、将軍の死、吉通の死、五太郎の死と5人の死亡が、宝永2年(1705年)から享保元年(1716年)までの約11年間で生じており、その次々と死亡していった結果により、最終的に奇跡的に将軍に就任したということを考えると、影で吉宗が動いていたのではないかと疑われても仕方がないところである。
徳川幕府を立て直すという運命のもとで、将軍就任までの導きがあったというだけでは、余りにも超強運の持ち主である。