源義経は、源頼朝の弟で、源平合戦で活躍した人物です。
御承知のとおり、義経は源平合戦の最大の功労者であるにもかかわらず、兄・源頼朝に追討されるという波瀾万丈の人生をおくります。
一方、この義経は、少年時代に京都の鞍馬寺から奥州藤原氏に招かれて、奥州平泉に移り住み、武将としての基礎を藤原秀衡から学んだと言われています。
しかし、どうして、義経は奥州藤原氏に招かれることになったのでしょうか?
今回は、少年時代の義経が、奥州平泉に移り住んだ経緯についてご案内します。
目次
★源義経の生い立ちと奥州平泉への脱出
義経は、生まれてまもない頃、父・源義朝が平治の乱で平氏に敗れたため、京都の鞍馬寺に預けられました。
そして、平氏の厳しい監視の元で、いつ僧にさせられるのかを恐れながら過ごす少年時代を送っていました。
その後、義経は、奥州藤原氏の藤原秀衡を頼って、鞍馬寺を出奔します。そして、自らの手で元服を行って、奥州平泉にまで移り住んだのでした。
この義経と藤原秀衡との関係は、藤原秀衡の舅であった藤原基成が、義経の母の再婚相手となる一条長成の従兄弟の子であったため、この縁をたどったとも言われています。また、室町時代に書かれた英雄伝記『義経記』によると、ある人物が仲介して義経を平泉にまで連れていったという記述があります。
それには、どのような経緯があったのでしょうか?
★『義経記』による源義経と「金売り吉次」
それでは、どのような人物が、この源氏の御曹司である義経を東北まで連れて行ったのでしょうか?
『義経記』によると、「金売り吉次」という人物が、藤原秀衡から鞍馬の山寺にいる義経を連れてくるように依頼され、連れていったとされています。
ちなみに、「金売り」というのは、金と他の商品を交換して利益を上げる商人を意味します。
当時の奥州は金の一大産出地でした。奈良の大仏に用いられた大量の金も奥州で産出したものでした。
この金の商人が「金売り」でした。
そして、この「金売り吉次」は、鞍馬寺にいる遮那王(義経の幼名)が源義朝の九男であることが分かると、言葉を尽くして奥州へ連れ出したのでした。
また、「金売り吉次」は、商売上、京都と奥州を何度も行き来して、それぞれの情報網を持っており、その情報網から藤原秀衡から一条長成への伝達役になっていたのかも知れません。
そして、「金売り吉次」が、義経を奥州平泉にまで連れて行ったとき、藤原秀衡は三百騎もの馬を揃えて出迎えたと言われています。
さらに、藤原秀衡は、「金売り吉次」に砂金をはじめとする多くの褒美を与えたとされています。
つまり、吉次は、義経を説得して奥州に連れ出すことで、大儲けしたのでした。
★源義経と藤原秀衡との仲介した「金売り吉次」の諸説
この金売り吉次の存在は、史料によって名前や素性が異なっています。
前述の『義経記』には吉次信高とされ、京都三条の裕福な商人で毎年奥州へ足を伸ばしてしたとされています。
一方、鎌倉時代の軍記『源平盛衰記』では、京都五条の橘次末春という人物が義経を奥州に連れて行ったことになっています。
ほかに吉次の素性としては、奥州生まれの炭焼きの息子であるとか、金の鉱山で働く鉱山師であるなどとも、言われています。
そして、これらの人物は、それぞれの史料や説で名前、職業などは異なりますが、共通して言えることは、「金売り吉次」が荒稼ぎしていたということです。
例えば、栃木県足利市や東北の各地には、吉次が、金を埋めたとされる場所や、あるいは吉次の屋敷跡と伝えられる場所があるくらいです。
★「金売り吉次」は源義経の恩人か?
「金売り吉次」の正体は、史料によって異なるため、はっきりと分かりませんが、ただ言えることは、彼が莫大なお金を稼いでいたということです。
そして、この義経を京都から奥州藤原氏の連れだすことによって、更に稼いだとことになったということです。
つまり、「金売り吉次」は、不遇の身である源氏の御曹司に再興を願って力を貸したのではなく、源氏の血統を利用して、荒稼ぎしただけだということです。
しかし、人の縁というものは分かりません。義経は、奥州平泉に移り住み、藤原秀衡を父のように慕って、そして武士としての基礎を学んだことが、源平合戦での活躍につながったと思われます。