世界の偉人

ガンジーの非暴力主義がインドを動かし、残した言葉が世界を動かす

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 二十世紀のはじめ、大英帝国の植民地だったインドでは、三億五千万人のインドの民衆が、大英帝国の圧政と重税による貧困に苦しんでいました。

 インド社会では裕福な階級の家に生まれたガンジーは、エリートとして育ち、十九歳でイギリスに渡り弁護士となります。

 そして、仕事で同じくイギリスの植民地だった南アフリカを訪れた際、後に「人生で最も大切な時間だった」と振り返ることになる事件に遭遇しました。

 その事件とは、列車で依頼主の元に向かう途中、一等席に座っていたガンジーが一等席の切符を持っていたにもかかわらず、車掌が「インド人のお前は貨物車に乗れ!」「有色人種は出ていけ!」と迫ってきたのです。

 この時、ガンジーは、差別に立ち向かうことを決心しました。

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 今回は、差別との戦いに非暴力主義を貫いたガンジーのお話をご案内します。

 ★ガンジーは南アフリカで外国人登録証の撤廃に成功する

 南アフリカで、列車の一等席に乗っていて追い払いを受けたガンジーは、

 「この理不尽な差別に屈してインドに戻るなら、私は臆病者だ。この不正を糾すために私は闘う」と決意を固めます。

 当時、南アフリカでは、多くのインド人が歩道を歩く自由さえ奪われていました。

 つまり、外国人登録証の携帯を義務づけられるなどの様々な弾圧を受けていたのでした。

 そして、南アフリカの歩道を歩いていて、とがめられたガンジーは、警官の目の前で登録証に火をつけました。

 なんということをするのだと、警官はガンジーを殴りつけます。

 しかし、いかなる暴力も、不正に抗議する意志を消すことはできないという思いだけが、ガンジーを支えていました。

 そして、ガンジーが始めたこの運動は数千人規模にまで広がり、ついに南アフリカ政府に、外国人登録証の携帯義務の廃止を約束さることに成功したのでした。

 ★ガンジーのインド独立運動の信念

 一九一五年、ガンジーは二十二年ぶりに祖国インドに帰ります。

 そして、母国インドでガンジーを待っていたのは、大英帝国からの圧政と重税による貧困に苦しむ人々光景でした。

 このため、ガンジーはインドの大英帝国からの独立運動を掲げます。

 当時、インドの独立運動を担っていたのは「国民会議派」でしたが、彼らの政治運動は都会の富裕層の支持を集めるにとどまっていました。

 一方のガンジーは、国民会議派の運動とは一線を画し、農村を中心に民衆運動を展開しました。

 これは、南アフリカでの外国人登録証撤廃のときの経験から、人口の大半を占める農村の人びとが立ち上がらなければ、独立は不可能だと考えていたからでした。

 そして、ガンジーは、独立運動のシンボルとして、糸車(チャル力)を選びます。

 さらに、「イギリス製の服を買うのではなく自分たちでつくろう!  イギリスに依存している"暮らし"を変えよう」と訴えたのでした。

 ★ガンジーの民衆への訴え

 ガンジーはまた、イギリス製の服を焼き払う運動を呼びかけました。

 この運動は、またたく間に民衆の支持を集めていきました。

  一九一九年、警戒を強めた総督府が「集会禁止令」を発布すると、インド人の抗議集会に軍隊が出動して、死者四百人を出す大惨事が起きてしまいました。

 このとき、ガンジーは民衆に訴えます。

 「皆さんは彼らを、八つ裂きにしたいでしょう。その気持ちは私にもよく分かります。しかし、敵を赦すことは、敵を罰するよりも尊いことだということを、どうか忘れないで欲しいのです」と呼びかけました。

★ガンジーの独立運動の中止宣言

 けれども、仲間を、同胞を殺された人びとの怒りは爆発し、抑えることはできません。

 警察署に火を放ち、二十二人の警官を殺害してしまいました。

 この事件を聞いたガンジーは、非常なまでにショックを受けます。

 自分の今までの運動がこのような結果を招いてしまったことに衝撃を受けたガンジーは、ついに独立運動の中止を宣言したのでした。

 ★ガンジーは裏切り者と呼ばれ

 しかし、盛り上がった民衆からは、今度はガンジーを裏切り者とする非難する声が出始めます。

 この裏切り者だとする声に、ガンジーはこう応えました。

 「このまま暴力を放置すれば、さらなる暴力の泥沼にすべての人々が足を踏み入れてしまうでしよう。今こそ、立ち止まって考え直ざなければならないのです」

 しかし、総督府側は、独立運動鎮圧に向けて、更に追い討ちをかけます。

 そして、総督府は、「民衆を煽動した罪」でガンジーを逮捕するのでした。

 更に、街には戒厳令がしかれ、軍部の式力による独立運動の弾庄が激化していきました。

  ★ガンジーの秘策「塩の行進」

 一九二九年、インドの独立民衆運動に再び火が付き始めます。

 憲法改正などを決める委員会に、インド人が参加していないことを怒った民衆が、各地で激しい抗議運動を繰り広げたのでした。

 この運動をみていたガンジーは「このままでは武力衝突となる」と危機を感じたます。

 そして、再び運動の先頭に立つことになったのでした。

 一九三十年三月十二日、六十一歳になっていたガンジーは、海に向かって歩き始めました。

 当時、インドでは法律によって塩の製造は禁止され、さらに輸入された塩には法外な税がかけられていました。

 これは、人間は塩がなければ生きていけないため、大英帝国がインドの民衆から税を搾取するための圧政の一つでした。

 ガンジーは、その不当性を訴えるために、四百キロ先の海岸まで行進しようというのです。

 ガンジーが「塩の行進」を提案した時、暴力に訴えてでも独立を勝ち取ろうと主張するチヤンドラ・ボースは「ガンジーのやり方は生ぬるい!」と非難してきました。

 また、のちに、初代首相となるネルーも、「ガンジーはなぜ、""などという小さな問題にこだわるのか」と納得していませんでした。

 インドの統治を任されていたアーウィン総督にいたっては、イギリス国王ジョージ五世に、「ガンジーの行進は、物笑いの種です。放っておいてかまわないでしょう」と報告していました。

 それでもガンジーは歩き続けたのです。

 ガンジーのこの行動に、インドの民衆は心を強く揺さぶられ、「塩の行進」に加わる人びとは日に日に膨れ上がっていきました。

 そして、ついに出発して二十四日目の夕刻、およそ四百キロの道のりを歩ききったガンジーと民衆は、アラビア海の海岸に到着します。

 翌朝、ガンジーは、砂浜に自然に結晶した小さな塩の塊を取り上げ、こう宣言しました。

 「この塩で、大英帝国を根底から揺さぶるのです! たとえ手首が切り落とされようとも、掴んだ塩を放してはなりません! インドの誇りは、この塩にあるのです!

 そして、人々は堰を切ったように海に入りました。

★非暴力を貢いた民衆

 この運動は、五百万人が参加する大運動に発展しました。

 これに対して、イギリス本国のマクドナルド首相は、総督府に「帝国の威信にかけて、反政府運動を鎮圧せよ」と指示を出します。

 警官は、棍棒に鉄の板を巻き、海岸に向かう人びとを容赦なく殴りつけます。

 しかし、人々はガンジーの訴える非暴力、不服従を貫きました。

 殴られても殴られても立ち上がって海を目指す民衆の姿は、大英帝国を震え上がらせました。

 総督府は軍隊を派遣、逮捕者は十万人を超えました。

 そして、とうとうガンジーもまた総督府に逮捕されてしまいました。

★ガンジーは逮捕されたけれども

 ガンジーが逮捕された後、製塩工場に二千五百人のインド人が集まりました。

 そして、このデモを指導した詩人のサロジニー・ナイドゥーはこう宣言しました。

  「ガンジーの肉体は刑務所につながれていますが、彼の魂は私たちと共にあります」

  「叩かなることがあっても、暴力に訴えてはなりません。抵抗せず、打たれて下さい」

 しかし、デモ隊の前には、ライフルや棍棒を手にした四百人の警官が立ちはだかっています。

 けれども、デモは、傷つき、倒れる人々を乗り越え、非暴力を貫き、整然と列をなして、警官の暴力の前に歩みを進めます。

 そして、このデモの状況が、アメリ力の新聞の一面トップで報じられました。

  記事の内容は「これほど悲惨な光景を見たことはない。その痛ましさに、私は顔を背けざるをえなかった。驚くべきはインド人の規律だった。彼らは、残虐な暴力に対し、非暴力を完全に貫き通した。」

★ガンジーは仲間の保釈を勝ち取る

 この新聞報道が一つのの大きなきっかけになります。

 そして、国際世論が高まっていく中、イギリス政府は、総督府に「今後は、ガンジーを大英帝国の交渉相手とせよ」と通達しました。

 釈放されたガンジーは、一九三一年三月五日、総督府に、「塩の製造」と十万人にのぼる政治犯の全員釈放を認めさせたのでした。

★インドは独立するもガンジーの新たな悲しみ

 一九四七年八月十五日、インドは、ついに悲願の独立を勝ち取ります。

 しかし、残念なことに、その独立はガンジーを悲しませるものとなってしまいました。

 それは、ヒンドゥー教とイスラム教の対立によって、分離独立に向けた争いが起こり始めたのです。

 この二つの宗教の対立は、各地で流血の惨事を引き起こし、五十万人以上が死亡してしまいました。

★ガンジーは暴力追放を訴えて断食を行う

 せっかくインドの独立を達成したのに、次に宗教による対立がインドに蔓ています。

 この状況をみて、悲嘆に暮れたガンジーは、争いがやむことを願い、死を覚悟した「断食」に入りました。

 日に日にやせ細ってゆくガンジーに、インドの民衆は心を傷めます。

 そして断食六日目、争いを続けていた人々がついに武器を捨てました。

  一九四八年一月三十日、断食を解き、祈りを捧げるために外に出たガンジーを凶弾が襲います。

 ガンジーの宗教融和策に反発する者の犯行でした。享年七十八歳でした。

★ガンジーが残した言葉

 このように、残念ながらガンジーは亡くなってしまいました。

 しかし、ガンジーの死後、非暴力運動は世界各地で受け継がれていきました。

 人間の尊厳と自由を訴えるガンジーの精神は、今も人びとの胸に生き続けています。

 そして、ガンジーは死を前に、こんな言葉を残しています。

 「誰かが私に銃を向けても、私が微笑みながら銃口に向かうことができたなら、そして、銃弾を受けても、心に神の名を唱えることができたなら、その時こそ私は、祝福に値するものとなるでしょう」

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