細川ガラシャ玉というと、関ヶ原の戦いの前に、石田三成に大坂城に人質を取られそうになった際に死を選択した勇気ある女性として有名です。
この際、彼女はキリスト教信仰者であったため、自害をすることは許されず、家老に胸を突かせて38歳の生涯を閉じるのでした。
しかし、彼女は、逃げようと思えば逃げられていたにもかかわらず、夫・細川忠興の病的なまでの嫉妬心を気にして死を選択したとして、後世までに語り継がれています。
そして、このガラシャのとった行動が、三成側に東軍武将の奥方を人質に取るという作戦を思い止まらせ、関ヶ原の戦いの結果に大きく影響したのでした。
今回は、この細川ガラシャ玉の半生について、御案内させていただきます。
なお、彼女は、キリシタンとなる前は、玉と呼ばれていましたが、ここでは、ガラシャと統一して記載させていただきます。
目次
★信長のとりもちで細川忠興に嫁ぐ
ガラシャは、父は言わずと知れた明智光秀、母は賢夫人として有名な煕子の三女として生まれました。
ガラシャは、16歳のときに、細川忠興のもとに嫁ぎました。
この婚儀をとりもったのは信長でした。
そして、父・光秀と、嫁ぎ先の父・細川藤孝は、足利義昭を将軍にとの志に燃え、苦労をともにし、信長に同じく仕える間柄で、武だけではなく茶道や歌など、高い教養によっても結ばれた友であった。
また、夫になるその子・忠興もガラシャも同じ十六歳で、どこからみても非の打ちどころのない良縁でした。
★ガラシャの幸せな結婚生活
夫・忠興は神経質でしたが、やさしく、ガラシャの着物を自ら選んで喜ばせるなど、幸せな結婚生活を送りました。
そして、翌年には長女が、次の年には長男が生まれました。
嫁いで二年、夫婦は信長の命令により、丹後の地、天の橋立が美しい宮津城へ移りました。
★ガラシャの運命を大きく変えた本能寺の変
しかし、天正10年(1582年)、父・明智光秀が、二人の仲をとりもってくれた信長を本能寺の変で襲います。
その後、父・光秀は、中国から兵を大返しした秀吉軍との山崎の戦いに敗れ、亡くなってしまいました。
この山崎の戦いで、夫の父である細川藤孝は光秀に味方せず、信長の恩顧を口実に剃髪出家し、幽斎と名を変えました。
そして、夫・忠興は、災いが細川家に及ぶのを恐れ、一応離婚の形をとって、奥丹後半島の標高約四百メートルの山中、三戸野(京都府丹後市,味土野)に彼女を幽閉して、秀吉に使者を送り、光秀に味方しないことを伝えました。
しかし、夫・忠興はあまりにもガラシャを愛していたために離別できませんでした。
★ガラシャの三戸野での幽閉生活
逆賊の娘となったガラシャは、三戸野での幽閉生活の中、母も、兄弟姉妹も、親類もが滅びた悲しみを二十歳の心にしまい、子どもとも引き裂かれて、わずかな侍女と兵士に守られて生きることを強いられました。
ガラシャは、三戸野での幽閉の日々を、父・光秀を想って暮らしました。
ガラシャは、父を憎みはじめた信長のうわさを知っていました。
領地替えなど耐えられぬことのつづいた父の立場を、娘の心はやさしく理解したのでした。
そして、夫・忠興が父・光秀を見捨てたことを、細川家を守るやむをえない方策とわかっても、やはり許しがたいものがあるのでした。
さらに、三戸野での幽閉の日々は、禅に心を傾けていたガラシャの内面を、強く深く鍛え上げました。そして、明るくて笑顔の美しかった二十歳の娘は、自我に目覚める女性へと変わっていき、凛然とした冷ややかな表情が似合う女性へと変化していきました。
★ガラシャの幽閉からの解放
ガラシャを幽閉から解放したのは、父・光秀を破って天下人となった秀吉でした。
諸大名の奥方を大坂城下に住まわせる人質作戦を進めていた秀吉は、離婚の形をとっているが、愛を捨て切れない夫・忠興の心中を知っていました。
秀吉はガラシャが大坂に住むことを許したのでした。
しかし、ガラシャは、すぐに三戸野から出てきませんでした。この理由は、幽閉中に夫・忠興が側室を持ったことが許せなかったことが原因でした。
戦国時代当時、側室の存在が当たり前でしたが、光秀と幽斎の両父ともに正室しかいなかったため、ガラシャは夫・忠興が側室を持ったことに激しく失望するのでした。
★夫・忠興の激しい嫉妬心
そして、ようなく大坂で暮らし始めたガラシャが待っていたのは、夫・忠興の病的なまでの激しい嫉妬心でした。
このため、ガラシャは、一歩も邸外に出ることができず、邸内でも家臣の住む棟へ行くことも許されませんでした。
ある朝、手水に出た玉が、庭にいた植木屋に声をかけ、男がうやうやしくあいさつを返すのを見た夫・忠興は、一刀のもとに男の首をはねてしまいました。
このように、夫・忠興は、妻が男と話をすることさえ許しませんでした。
しかし、ガラシャの心もまた冷え切っていました。その光景を直視していましたが、ガラシャは表情ひとつ変えませんでした。
また、夫をののしることもしませんでした。その妻の無反応に怒った夫・忠興は、生首を膳にのせ目の前に置くが、それでもガラシャは動じませんでした。
夫・忠興は、たまりかねて「お前は蛇だ」と怒鳴ると、「鬼の女房に蛇はよくお似合いでしよう」と答えそうです。このように、関係が冷え切った夫婦となってしまいました。
このように夫婦関係でしたが、父・必秀の謀反により、肉親のすべてを失ったガラシャにとつて、頼るべきは夫・忠興しかなく、彼女に帰る家はありませんでした。
それに、異常な嫉妬心を伴う愛ではありましたが、夫は間違いなくガラシャを溺愛していたのは事実でした。
このため、その愛の形は変形していても、愛されていること実感できる日々でした。
★ガラシャは秀吉からの招きに短刀を持参して登城
一方、夫・忠興が玉を邸内から一歩も外に出さなかったのには、秀吉の好色から妻を守るという側面もありました。
事実、天下人・秀吉に体をまかせねばならなかった奥方たちは何人もいたといいます。
そして、夫・忠興が出陣中に、秀吉から大坂城へ来いとの命令が出ました。
このため、ガラシャは、短刀を懐に大坂城に登りました。
笑顔で迎えた秀吉に、玉は深々と頭を下げたとき、短刀がポトリと畳に落ちました。
それはあたかも、「もしも私の体にふれるなら、私は懐剣で死にます。たとえあなた様が天下人であっても、私は絶対に許しません。」ということを、畳の上の短刀は語っていました。
★ガラシャの心を開くキリシタン信仰への道
細川家の親戚筋にあたる侍女に、清原マリアという女性がいました。
このマリアという女性を通じてのキリシタン信仰は、玉の閉ざされた心を開くきっかけとなりました。
これ以降、冷え切ったガラシャの心に、少しずつ暖風が吹きはじめていきました。
さらに、夫・忠興も高山右近らと親交があるとともに、小牧長久手の合戦で陣をはった集落に、キリシタン信者が多かったこともあり、夫・忠興が陣中からの手紙で、キリシタンのことを興味深く知らせたことも大きな影響でした。
ガラシャは、夫や侍女からの間接的な話では、我慢できなくなり、夫が九州の島津討伐に出陣の留守中、侍女の打ち掛けで顔をかくして、番人に気づかれないよう外出しました。
そして、近くの教会でガラシャは修道士に会い、禅の知識をもって、霊魂の不滅を説く西洋の神について教えを乞いました。
その日以後、ガラシャは侍女たちを教会にやり、洗礼を受けさせました。
また、怒ることが罪だと知ると、ガラシャは心を入れ替えます。そして、子どもとも接する時間を多くとり、侍女たちに日曜日は休みを与え、貧しい者への施しもするようになりました。
★秀吉によるキリシタン禁制
このようにキリスト教信仰によって心が救われたガラシャですが、秀吉がキリシタン禁制を敷いてしまいました。
このため、ガラシャは、秀吉が信仰する者を殺すなら、自分も殉教したいと願い、洗礼を受けます。このときの洗礼名がガラシャといい、日本語で恩寵という意味があります。
夫・忠興は、妻がキリシタンになったことを長く知りませんでした。
しかし、それを知ったとき、忠興は烈火のごとく怒って、ガラシャの顔に短刀を突き付けました。
また信者となった乳母や侍女の鼻や耳をそぎ、髪の毛を切って棄教を迫りました。
しかし、ガラシャは夫のこの暴挙を恐れず、死をむしろ望んで、屈しませんでした。
そして秀吉の禁制がゆるむと、忠興は逆に屋敷内に聖堂をつくり、孤児院を建てることを許しました。
★人質となることを拒むガラシャ
ガラシャが三十八歳のとき、徳川家康と石田三成の対立が深まりました。夫・忠興は家康に味方して関東へ下りました。
このとき、三成方は大坂屋敷に残された大名の奥方たちを、人質として大坂城へ入れようとしました。
迎えの使者が来たとき、側近はガラシャに丹後の領地に逃げるようすすめましたが、夫・忠興のいびつな性格をよく知るガラシャは「夫は逃げることを許す人ではない」と、自決を覚悟しました。
彼女はキリシタンとなって以降、殉教者として死ぬことを切望していました。
そして、子どもや長男の嫁などを逃がし、一緒に死にたいと願う侍女たちには暇を与えて、死を許しませんでした。
キリシタンにとって自害は罪とされています。このため、家老の小笠原少斎に、「わが胸をなぎなた長刀で突かれよ」と命じました。
ガラシャは白装束に身をつつみ、キリストへの祈りをささげると、長い髪をみずから巻き上げ、長刀をかざす少斎の前に胸を押し開くようにして瞑目した。
このとき、少斎はガラシャあまりに泰然としているので、長刀を向けられませんでした。
そして、少斎は、敷居を隔てて「お座敷に人ることは恐れ多いことにございますれば、いま少しこちらへお出まし下さい」と頼みました。
すると死を待って目を閉じていたガラシャは、求めに応じて、少斎の立つ敷居近くへ進み寄ります。再び死に支度をしようと居住まいを正します。それが終わろうとする瞬間、少斎はガラシヤの胸元に鋭く長い刃を突き刺したのでした。
その後、おくと霜という二人の侍女が、ガラシャの形見の品を持ち出しました。
少斎は、ガラシャの亡骸を蔀と遣戸をはずして覆い、部屋のまわりに鉄砲の火薬をまいて火をつけました。
そして、玄関に急ぎ、大坂城からの迎えの使者に、ガラシャ夫人が人質を拒否して自害したことを告げると、少斎自身も自刃しました。ガラシャの激しい意志を真っ赤に燃えたたせて、細川屋敷は炎に包まれ、大坂の夜空に燃え上がったのでした。
このガラシャの死によって、三成方は奥方の人質作戦を取りやめました。
この作戦の失敗で三成方の受けた打撃はとても大きいものでした。
家康はガラシャの死をおしみ、その勇気をたたえました。そして、忠興は家康から豊前小倉三十二万石をもらうことになったのでした。
★その後の細川家
関ヶ原の戦い後、細川氏は小倉、さらに肥後熊本へと転じれらます。
憎み合うことの多かった夫妻だが、死んでなお、ガラシャへの忠興の愛は大きく、亡き妻のために南蛮寺を建てました。
しかし、キリシタン禁制によって慶長十八年(1613年)、この寺はこわされたが、今もガラシヤ夫人を追悼する鐘だけが、細川家の九曜の家紋を刻み込んで残っています。
また、ガラシャの子どもたちは、家のために殉じた母を誇りとしました。
明智光秀の娘として、また禁制のキリシタンを信じて、細川家を危うくする存在でもあったガラシャでしたが、子どもたちにとっては、家門を守り、徳川の代に、大名の地位を築く礎となったかけがえのない母でした。
そして、忠興・忠利のあとを継いだ、熊本藩主の光尚は、その祖母ガラシャを深く知りたく、ガラシャの死から四十八年ののち、その死を見届けた侍女・霜を探し出しました。
さらに、光尚は、ガラシャの最期を聞くだけではあきたらず、それを文章にして残しました。長さ一・ニメートルの紙に浦繍されたガラシャの最期を語る「霜女覚書」は、肥後(熊本)五十四万石、外様大名の雄となった細川家に大切に保存されて、四百年余のいま、われわれの目に勇気ある戦国の女の見事な死にざまをよみがえらせてくれます。