歴史は勝者が作ると言われています。実際に、敗者の多くは死亡し、勝者によって書き残したものが歴史になっています。
そして、その書き残した内容は、当然、勝者の都合の良いものとなっており、勝者の都合の悪いことは消され、敗者の悪いところが必要以上にクローズアップされているケースがほとんどなのです。
そのような中でも、敗者が悪くいわれる例として最も有名なのが今川義元だと思われます。
今川義元というと、永禄三年(1560年)五月十九日、二万五千人という大軍を率いて尾張に侵攻しますが、わずか三千人の織田信長と戦って敗れてしまった「桶狭間の戦い」がイメージされます。
今回は、この今川義元と、桶狭間の戦いの敗戦について御案内していきたいと思います。
目次
★今川義元は軟弱な武将だったのか
桶狭間の戦いについて、今川義元敗因が語られるとき、必ずといってよいほど取り沙汰されるのが、今川義元の軟弱武将ぶりだと思われます。
その軟弱ぶりとして、頻繁に言われるのが、①馬にも乗れず輿に乗って出陣した、②日頃からお歯黒をして公家風の生活をしていた、ということだと思われます。
そして、最後には、このような軟弱武将だったので、二万五千人もの大軍を擁していながら、わずか三千人の織田信長に負けたのだ、というのが、この桶狭間の戦いに対する多くの人の共通認識と思われます。
しかし、この認識は、少しというか、かなり違います。
★今川義元の輿に乗って出陣した理由とお歯黒の理由
まず、輿に乗って出陣した件についてですが、織田方の軍記には、たしかに、義元は足が短く、馬に乗れなかったという書き方をしたものもありますが、これはすべて間違いです。
当時は、誰でもが輿に乗れたというわけではなく、一般庶民はもちろん、通常は武士たちも輿には乗れませんでした。
輿に乗ることができたのは、特別に、足利将軍家から許可された者に限られていて、足利氏の一門であり、しかも、駿河・遠江・三河の三カ国の「太守」といわれた義元には、輿に乗ることが許可されていたのでした。
ちなみに、今川氏は、足利氏の分かれである吉良氏からの分かれで、「今川記」という史料には、「御所が絶えれば吉良がつぎ、吉良が絶えれば今川がつぐ」という、将軍家を継承できる家柄であったことが強調されているのです。
つまり、輿に乗ることができるのは、幕府から公式に許可された権利でステイタスを意味していましたので、信長を威圧するため、ことさら今川家に与えられた特権を誇示するため、馬ではなく輿に乗って出陣したのでした。
また、もう一つのお歯黒の件も似たようなことが言えます。
これも、軟弱で公家風だからお歯黒をしていたと言う訳ではなく、自分は貴人であるという理由で、相手に誇示するために、お歯黒をしていたのでした。
★今川義元の領国経営
今川義元というと、前述のとおり軟弱武将という印象が強かったせいか、その領国経営の実態が知られることがほとんどありませんでした。
しかし、戦国時代、親から受けついだ領国を維持することすら大変だったところ、義元は、父・氏親、兄・氏輝の時代は駿河・遠江二カ国を領していただけでしたが、三河にまで版図を広げているのでした。
もちろん、その背後には雪斎という名軍師がついていたこともありますが、そうした軍事的な面での勢力圏の拡大だけでなく、父・氏親の制定した「今川仮名目録」の不足分を補う「仮名目録追加」を制定しています。
また、駿府の商人たちを束ねる商人頭というポストを設け、商人統制に動きだしてもいました。
中でも領国経営手腕として特筆されるのは海を使った伊勢との交易と金山開発で、これらによって今川領国の経済力は大幅にアップし、文字通り、「富国強兵」を推進しているのでした。
こうした経済力をバックに、都下りの公家たちを優遇し、和歌の名門冷泉家の当主為和や、蹴鞠の名門飛鳥井家の当主雅綱らが駿府に流寓し、彼らから王朝的京都風公家文化が駿府にも花開くことになりました。
誰がいつごろから言い出したかは明らかではありませんが、この駿府の今川文化、越前一乗谷の朝倉文化、それに周防山口の大内文化を「戦国三大文化」と称していますが、義元の時代がまさに戦国大名今川氏の黄金期でありました。
では、その一流の戦国武将が、なぜ、織田信長という台頭してきたばかりの青年武将に首を取られてしまったのでしょうか?
★桶狭間の戦いで奇襲を受けた今川義元
桶狭間の戦いが繰り広げられたのは、永禄三年五月十九日でした。
この日早朝、三河・尾張国境の幣雛城を出発した義元は、大高城をめざして進んでいました。
大高城付近では、大高城に対する織田方の二つの砦、鷲津砦と丸根砦への攻撃がはじめられ、あっさり陥落していました。
そして、清須城にいた信長は、その情報を得るや単騎、清須城を飛びだし、まず、熱田神社に向かい、そこで戦勝祈願をしている間に兵が集結しましたが、その数は三千人に過ぎませんでした。
信長はさらに善照寺砦に進み、そこに兵千名を残し、旗・指物も残し、本隊がそこにとどまっているようにみせ、自ら二千名の精鋭を率いて中島砦に進み、そこから、義元が昼食休憩をとっている桶狭間山に向かいました。
従来は、善照寺砦から近囲をして太子ケ根という小高い山にとりつき、そこから谷底のような低地に布陣していた義元軍に奇襲をかけたという迂回奇襲説が主要でしたが、近年では「信長公記」の記述どおり、迂回も否定され、義元本陣も、谷底ではなく桶狭間山という山の上にあったことで、奇襲ではなく、正面攻撃説が有力とされています。
一方、今川軍の方は、昼食休憩をとっている最中にまさかの信長からまさかの奇襲攻撃を受けて焦ります。
しかも、二万五千人のうち、義元の本隊には五千人しかおらず、しかもその五千人もかなり分散していました。
そのような中、昼食中にいきなりの攻撃受け、今川軍は浮足立ちました。
そして、織田軍の狙いは一つ、義元の首だけです。織田軍二千人が、ごちゃごちゃする一斉攻撃の中、義元の首だけを目がけて斬り込みをかけてきたのでした。
★桶狭間の戦いの今川義元の具体的な敗因は?
この信長の捨て身の正面奇襲で、義元が討たれた要因は、二つあったと思われます。
まず、一つ目は、前述した輿に乗って出陣したことだと思われます。
仮に、馬での出陣であれば、どれが総大将の馬かの見分けがつかず、義元の居場所を把握するのが難しかったと思われます。
敗因のもう一つは、二万五千名という大軍が総大将義元を中心に、固まってはいなかったという点です。
前方の鳴海城および大高城に兵が割かれ、また、本隊も五千名程度と言われているが、それも分散していて、義元を最終的に守っていた兵は三百名程度であったと言われています。
このような失敗は、義元に仕えていた名軍師・雪斎がこの頃にまで存命であれば、このような陣形ミスはなかったと思われます。
しかしながら、駿府城を出兵する際、義元自身は、このような結果になるとは夢にも思っていなかったでしようね。