歴史上の人物

顕如は石山本願寺を拠点に織田信長と10年におよんで戦った僧侶

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★顕如という人物

 顕如は、戦国時代の真っ只中に、12歳にして浄土真宗本願寺派11世宗主となりました。

 戦国時代は、民衆の不安な気持ちも高まって、浄土真宗の信徒は急増していました。

 そして、信徒の急増と比例するように、信徒による一向一揆の数を増えていきました。

 このため、顕如は、その一向一揆をコントロールすることにより、自身の権力、財力、更には武力も高めていき、大名なみの勢力を誇っていました。

★顕如と織田信長との石山合戦の始まり

 顕如と信長の10年にも及ぶ一連の戦いを石山合戦といいますが、その石山合戦の発端は、信長軍が浅井・朝倉軍と戦った「姉川の戦い」終了後、信長軍の戦勝者らしからぬ行動が引き金になったと言われています。

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 ご承知のとおり、「姉川の戦い」は、信長軍の勝利で終わり、敗れた浅井長政は小谷城に退き、籠城の態勢をとりました。

 そのとき、信長は逃げる長政を追撃はしましたが、小谷城にまで攻撃するのをやめました。

 これは、小谷城が、峻険な山城で、簡単には攻め落とせないという信長の判断によるものでした。

 このため、信長は、浅井方から奪い取った横山城に羽柴秀吉らを入れ、自らは岐阜に兵を戻したのでした。

 ところが、この信長軍の行動を岐阜に退却したと判断して、三好三人衆(三好長逸、三好政康、石成友通)が、信長軍が敗退と勘違いしたため、事態は複雑な様相となっていきました。

★三好三人衆の信長への挑発

 三好三人衆は、姉川の戦いから一か月近くたった元亀元年(1570年)7月21日、大坂方面の摂津の中島に入ります。

 そして、野田・福島に砦を築き、敗戦したと思った信長に対して、再び反撃の姿勢を見せ始めたのでした。

 これに対して、信長は、この砦の建造を三好三人衆の挑発と受け取り、進軍を開始します。

 そして、直ちに、摂津の天王寺に陣を置いて、野田・福島の砦まで進軍したのでした。

★信長の進軍に危機感を持つ顕如

 一方、この信長の進軍に危機感を持った人物がいました。それが、顕如でした。

 反対に信長の方は、出陣の時点では、石山本願寺の顕如を挑発する意図はなかったのかもしれません。

 本願寺は、信長が足利義昭を擁して上洛し、本願寺に、矢銭を課したとき、言われるとおりに矢銭(税)を提供し、敵対する様子はありませんでした。

 しかし、信長が張った陣は、天王寺から天満宮の森、海老江、川口、神崎、上難波、下難波と、ちょうど本願寺を包囲する形での陣形でした。

 この信長軍の布陣の様子を見て、顕如は、次は自分が狙われているのではと危機を察知したのでした。

★戦国時代における一向一揆とは?

 ちなみに、戦国時代における一向一揆とは、どのようなものだったのでしょうか。

 その最たる例が、加賀で生じてました。加賀では、一向一揆が起こって、加賀の守護だった富樫政親が自決し、加賀は「百姓ノ持タル国」となっていました。

 つまり、これは加賀一国が本願寺の所領となり、年貢は本願寺に運び込まれているということを意味していました。

 信長としては、自身の目標である「天下布武」の実現のため、このような本願寺勢力の排除を何とかしなければならないと考えていたのでした。

★顕如が信長包囲網を引く

 そして、信長が前述のように本願寺を取り囲むような陣形をとったことについて、顕如は、三好三人衆の野田・福島砦が落とされれば、次は間違いなく本願寺を攻めてくると判断しました。

 このため、顕如は、まず紀州門徒に出馬を命じ、さらには諸国の門徒に檄をとばし、信長に対する戦いに立ち上がるように呼びかけました。

 もちろん、顕如は単独で信長と戦おうと考えていた訳ではなく、近くでは三好三人衆と行動を共にし、少し離れたところでは、近江の浅井長政、越前の朝倉義景と連絡をとり合い関係を築いていました。

 そして、顕如の最も頼りにしていたのは、妻同志が姉妹となる武田信玄の存在でした。

 顕如の号令により、姉川の戦いで敗れた浅井長政と朝倉義景が失地の回復をはかり、三好三人衆が石山本願寺と連携を図り、各地の一向一揆も一斉に蜂起し、武田信玄も呼応し上洛の準備に入りました。

 また、近江の浅井長政のお膝元である湖北一向一挨、伊勢長島の一向一援が起こります。これらの一揆は、信長にとって痛手となりました。

 特に、伊勢長島の一向一撲では、信長の弟で、尾張の小木江城を守っていた織田信興が攻め殺されてしまいました。

 つまり、信長をして、この時は弟の救出にも向かえない事態にあったのでした。

 結局、信長は周囲すべてを敵にまわしてはラチがあかないと判断し、将軍・足利義昭を頼って、勅命による講和という奥の手を使い、この四面楚歌状態を脱することができたのでした。

★再び一向一揆と信長との対決

 そして、その後、武田信玄が上洛を始めます。信長にとって最大のピンチを迎えますが、進軍中の信玄が亡くなってしまい、武田軍は引き返してしまいました。

 このタイミングで、信長は、再び浅井・朝倉への攻撃を再開します。そして、両家ともに滅亡してしまうのでした。

 その後、勢いを得た信長は、天正二年(1574年)に伊勢長島一向一揆との戦い、同三年の越前一向一揆との戦いを繰り広げ、いずれも撃破します。

 一方、顕如は、この伊勢長島一向一揆での敗北、越前一向一揆の敗北という事態を受けて、戦いの継続がむずかしいと判断しました。

 そして、天正三年十月、顕如から信長に対して講和の申し出があり、誓書の交換が行われて講和を結んだのでした。

★顕如の最後の戦い

 しかし、顕如と信長は水と油です。このため、この講和も長続きはしませんでした。

 講和状態にあったのはわずか半年で、早くも、翌天正四年(一五七六)四月に、顕如は、足利義昭および毛利輝元と結んで、再び信長との戦いに挑み始めます。

 そして、これまでの戦いは、どちらかといえば、信長と各地の一向一撲との戦いでしたが、ここから続く顕如と信長との約五年に及ぶ戦いは、顕如と信長との直接対決が繰り広げられました。

★顕如の戦いの終焉

 しかし、最終的に、顕如と信長は、天正八年(1580年)に講和しました。

 これは、その前年に、信長の部将・柴田勝家が加賀を征圧したことで、本願寺の財政基盤がもぎとられる形となり、顕如としても、これ以上の抵抗がむずかしいと判断したからでした。

 そして、講和成立から約一か月後に顕如が大坂を退去したことで10年におよぶ石山合戦は、ようやく終焉したのでした。

 顕如にしてみれば、妻同士が姉妹という関係にあった武田信玄が53歳という若さで亡くなってしまったことが、最大の誤算だったかも知れませんね。

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