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★新選組局長 近藤勇の愛刀
近藤勇と言えば、新選組の局長として有名ですが、講談などは戦いの前に、「今宵の虎徹は血に餓えている」という決め台詞があります。
幕末当時でも国宝級とされた長曽祢虎徹ですが、大名ですらなかった近藤勇が所有していたことに違和感があり、また近藤勇の所有物としての現物が残っていないこともあって、「近藤勇の長曽祢虎徹は偽物だったのではないか。」という説がありますが、本当のところはどうだったのでしょうか?
★近藤は長曽根虎徹をどのようにして手に入れたのか
近藤勇の長曽祢虎徹が本物かどうかについては、その入手方法に信憑性があるかという観点から確認をしてみたところ、新撰組研究の草分け的な存在である子母澤寛 氏の「新撰組始末記」によると3つの説があるようです。
1 将軍家から賜ったものとする説
2 新選組の斎藤一が掘り出したとされる説
3 新撰組のスポンサーであった鴻池善右衛門からの拝領だとされる説
いずれにせよ、入手方法は、はっきりとしないのが現状のようですので、信憑性の確認は難しいようです。
★そもそも長曽祢虎徹とはどのような刀だったのか
長曽祢虎徹は、江戸時代の名刀工である長曽祢興里によって作られたものです。
江戸時代の刀の多くがそうであるように反りが浅く、地鉄(じがね)の模様のことを鍛え肌と言いますが、長曽祢虎徹は、木の年輪のような筋が丸みを帯びているように見える杢目肌(もくめはだ)が特徴的です。
江戸時代、日本刀の試し斬りを行う専門役職が刀の切れ味の序列を切れ味ごとに4段階に分けていましたが、長曽祢虎徹は当然ながら「最上大業物」という最上位に位置付けられてました。
そして、このような長曽祢虎徹ですから、当然に人気があり、それに伴って偽物も多くの出回っていたものと考えられます。
★偽物であるという説
この偽物説というのは、近藤の長曽祢虎徹は、幕末当時に名工であった源清麿の打った刀に偽銘を施したものとするものです。
また、近藤勇に刀を売ったとされる刀屋が、「近藤勇に清麿を虎徹だといって売った」と自身の養父に語ったとされる説もあり、そもそも論として、当時でもすでに国宝級とされていた長曽祢虎徹なので、大名でもない近藤勇が持てるようなものではない、という結論的な話から、「近藤勇の虎徹は偽物らしい」とも言われています。
★では近藤勇の長曽祢虎徹の切れ味はどうだったのか
近藤勇が残した名言として、「俺は武士よりも武士らしい武士になる」という言葉があります。
元々が武士の生まれでなかったが故の彼らしい発言ですが、そんな彼の武士道を象徴するものといえば、名刀「長曽祢虎徹」だったのでしょう。
実際、竹刀剣術ではそれほど凄腕という訳ではなかったと言われている近藤勇ですが、真剣による実戦ではめっぽう強かったとされており、その理由は、名刀「長曽祢虎徹」をもって戦っているという自負心によるところが大きかったのではないかと思われます。
そして、近藤自身も、自身の刀を長曽根虎徹と信じていたようで、池田屋事件の後に養父宛てにしたためた手紙の中に「下拙刀は虎徹故に哉、無事に御座候」(他の隊員の刀はボロボロになったが、自分の刀は長曽祢虎徹だったので命が助かった。)ということを述べています。
この池田屋事件は、幕府側の治安部隊である新撰組が、京都にある旅館・池田屋に集まっていた尊王攘夷派の志士たちを襲撃した事件ですが、当初、江戸幕府の転覆を謀る20数名の志士たちが集まる池田屋に、新撰組側は近藤を含むたった4人で攻め込みました。
尊王攘夷派の志士たちとの激しい戦いにおいて、永倉新八と近藤勇が死闘を繰り広げ、永倉新八の刀は激闘に末に折れてしまいますが、近藤勇の虎徹は、持ち主同様に無傷だったといいますから、近藤の刀が素晴らしい刀であったことは間違いのないようです。
★結論(私論)
以上、紹介した内容から、私論として結論を申し上げますと、本物ではなかったのではないかと思います。
その一番の理由は、やはり国宝級の刀だったというところから、大名でもなかった近藤勇の手に入るようなものではなかったのではないかという疑念がどうしても沸いてしまいます。
そして、もし本物なのであれば、何んらかの形で近藤勇が所有していた長曽祢虎徹として現存されているような気がしてなりません。
しかしながら、近藤勇が、自身の刀を長曽祢虎徹と信じて戦っていたのは事実ですし、実際によく切れて刃折れすることなく、近藤勇を剣士として自身の能力以上のものを引き出していたのも事実だと思われます。