伊達政宗は、生まれた年月があと数十年早ければ、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と並んで天下取りに加わっていただろうと言われている人物です。
しかし、時代の流れに勝てず、徳川家康が江戸幕府を開いたことで、その野望は終了したものと思われていました。
けれども、彼は、当時、禁止されていた大型船を製造してスペインと交渉を行い、軍事同盟を組んで幕府に対抗しようとしていたと目される文書が確認されていますので、ご案内します。
目次
★伊達政宗によるスペインへの使節団派遣
慶長18年(1613年)、政宗は家臣の支倉常長ら180余名で編成された使節団を、スペイン領国のノビスパン(メキシコ)やスペイン本国との通商交渉を行う目的で派遣しました。
しかし、この使節団の派遣には2箇所の疑問点があります。
まず、一つ目は、当時、すでにキリスト教の布教は禁止されていたにもかかわらず、政宗は宣教師を来日させようとしていました。
さらに、二つ目は、幕府は大型船の製造を禁止していたにもかかわらず、仙台藩のサン・ファン・バウティスタ号という大型船を建造して使節団を派遣したのか?ということです。
これは、野心家である政宗のことですので、何か使節団派遣には違う目的があるかも知れません。
★伊達政宗の使節団派遣はスペインとの軍事同盟を意図していた?
また、使節団の支倉常長がスペイン国王フィリペ三世に渡した親書には、「スペインと敵対関係にあるイギリス、オランダなどの国民が日本に入国してきた者は全て裁判にかける」と通商交渉にしては違和感のある、どこか軍事同盟を匂わせる文書があります。
そして、更にヨーロッパで出版された使節団に関する『伊達政宗遣使録』には、「自分の地位と領土をスペイン国王に献じる」と提案する記述まであり、これは明らかに、当時世界最強を謳われたスペインとの軍事同盟への足掛かりにしようする意図がくみ取れます。
★さらに見え隠れする伊達政宗の討幕計画
この使節団に係る政宗自筆の書簡には、計画が露見したときの備えからか、前述のような軍事同盟を匂わせる文書は確認されていません。
しかし、使節団に同行した宣教師ルイス・ソテロは政宗の野望を見透かした上で、次のような書簡を送っています。
まず、スペイン宰相に宛てたものには、「政宗は幕府に迫害されている30万人のキリシタンを家来にし、天下を取ろうとしている。」とあります。
さらに、支倉常長がスペイン国王に拝謁した際の通訳記録には、「政宗は我が身、我が領土をスペイン国王に献じ、国王の役に立つことがあれば喜んで尽くす。」と記録されています。
支倉常長が、ここまでの発言をしたというのは疑問が残りますので、通訳者の能力などに疑問を持ってしまいますが、それでも、ある程度の軍事同盟的な内容に触れない限り、このような話にはなりそうにありません。
★伊達政宗に打倒徳川はあったのか?
以上の内容を踏まえても、政宗の討幕計画とするのはいかがなものかと、否定的な意見もあります。
仙台藩使節団の本来の目的は通商交渉なので、ある程度は歓心を買うために大きなことを言ったとしても、不自然ではありません。
しかし、反対に通商交渉からは、話が飛躍し過ぎていて、かつ政宗の過去の行動とその性格から、スペインの力を借りて討幕という考えがあっても全然不自然ではないという意見もあります。
一方で、ここで興味深い意見もあります。
それは、仙台に滞在していた宣教師アンジェリストの書簡のなかの「政宗は支倉常長が帰国したとたん、それまで肯定的にみていたキリシタンに対して迫害を行なった」という記述です。
この急な方向転換こそ、スペインと軍事同盟が上手く行かなかった証拠だというものです。
政宗にすれば、軍事同盟が上手く行かなかった場合、次に恐るのは幕府に、軍事同盟を結ぼうとしていたことがバレることです。
このため、政宗は、カムフラージュの一環としてキリシタンの迫害を行い、仙台藩が諸外国と手を結ぶことなんてあり得ないというアピールをしたかったのではないか、というものです。
★まとめ
・慶長18年(1613年)、政宗はスペイン国王に通商交渉を行うため、使節団を派遣した。
・しかし、通商交渉のためとしているが、政宗はスペインと軍事同盟を結びたかったのではないかいう疑義がある。
・では、どうして政宗はスペインと軍事同盟を結ぶのか、それは彼が子供の頃からの夢だった天下取りを諦めていなかったのではないかと思料される。
・実際、使節団の書簡には、それを匂わせる文書があり、更に同行した宣教師が残している書簡には、明らかに「30万人のキリシタンを家来にして天下取りを狙っている。」と記載している。
・一方、この説には曲解ではないかという意見もあるが、反対にスペイン使節団が帰国後、政宗は直ちにキリシタンを迫害しており、その行動が更に疑惑が持たれるところである。