前田まつ(芳春院)というと、次の2つのエピソードが思いだされます。
1 賤ヶ岳の戦いで、敵将・羽柴秀吉が、突然に居城に訪問するやいなや、台所に向かいまつ に対して「湯漬けを頼む。」と所望。そして、湯漬けを食べる秀吉に、敵側だった前田家も味方に加えてもらうことを約束して、夫の大大名への道筋を切り開く。
2 関ヶ原の戦い前に、徳川家康が「前田家謀反」を疑い、当主・前田利長の母であるまつ(芳春院)を江戸に人質に出すよう言われた。息子・前田利長は、家康と一線を交える覚悟をしているところに、まつは、息子・利長を叱咤し、お家が第一なので私が人質行くべきと主張。
まつに対するイメージとしては、歴史小説、物語などでも、夫・前田利家をしっかりとサポートするというものが多いですが、今回も、その内容を御紹介していきます。
目次
★まつの生い立ちと生涯
まつは、天文16年(1547年)、現在の愛知県海部郡に生まれました。父は篠原主計で、母はのちに高畠直吉と再婚しました。
まつは四歳のとき、土豪の荒子城主・前田利昌にもらわれました。
利昌の妻がまつの母の妹だったことが縁でした。そして、まつは12歳で利昌の子の利家と結婚します。つまり、彼らは従兄妹同士の夫婦でした。
まつは、秀吉の妻おねとは、夫が同じ信長に仕える身として、長屋友達でした。
秀吉とおねの結婚では、利家が仲人をつとめたとされています。
夫婦ともどもの付き合いで、まつは11人もの子だくさん、一方で、おねは子ができなかったので、まつは、四女・豪姫を秀吉・おね夫妻に養子に出していました。
この若かりし頃の秀吉夫妻、利家夫妻は、とても幸せな日々だったと思われますね。
しかし、時代は流れ、仕えていた信長は本能寺の変で亡くなり、その織田家の跡目争いで、秀吉は、利家と戦うことになってしまいます。
★敵将・羽柴秀吉が突然に単身で府中城を訪問
賤ヶ岳の戦いは、羽柴秀吉と柴田勝家が織田家の跡目を争って戦ったものですが、柴田軍の与力であった前田利家は、戦い前に秀吉は利家に対して「中立を保ってほしい。」旨の手紙を出していました。
そして、戦いは、秀吉の圧倒的有利に流れ、柴田勝家はその居城である北ノ庄城へと退散を余儀なくされます。
利家は、中立は保てなかったものの、積極的には秀吉と戦いたくなかったため、秀吉の圧倒的優勢と判断するや、自軍が後方部隊であったことを利して、早々に戦場から居城・府中城へと退却してしまいました。
その後、総大将だった柴田勝家は、退却途上に府中城に立ち寄り、「お前は、秀吉と仲良しだから許してもらって、お家の存続を図れ。」とアドバイスを送った後、湯漬けと馬を所望して、北ノ庄城に退却したのは有名な話です。
そして、その翌日、敵軍の総大将・秀吉が単身で府中城を訪れます。
この訪問に戸惑う利家でしたが、秀吉は、利家のところではなく、台所で食事の準備をしていた まつ のところ行き「湯漬けを頼む。」と所望しました。
そして、渡された湯漬けを食べる秀吉に、まつ は話しかけます。
「今回は、大勝利ですね、おめでとうございます。」
それに対して、秀吉、「いや、いや、利家殿のお陰だよ。」
それに対して、直ちに まつ は、「それでは、お味方に加えてくださいよ。」
こんなやり取りがあって、前田軍が羽柴軍の援軍に加わることを約束しました。
どちらかというと、真面目で不器用な夫・利家に対して、まつ は、秀吉とは旧知の間柄とはいえ、示し合わせていたかのようなウィットに跳んだ会話ができるのは強みですね。
一方、秀吉も、利家からではなく、まつ から攻めた方が話が早そうだと経験的に分かっていたのでしょうね。
そして、この賤ヶ岳の戦い後、北陸の柴田勝家の所領だったところの多くが前田家の所領となりました。
★戦場へ行く夫・利家への嫌みを言って発奮させる
まつが、気丈な妻だったことを示すエピソードとして、利家が、佐々成政との戦いに末森城へ出陣しようとするときに、もの凄い“嫌み”を言い、発奮させたというものもあります。
これは、まつ38歳、利家47歳のときでした。
『川角太閤記』に記載されている話ですが、国境を接する佐々成政との戦いに、利家は、三度も敗れていて、今回は、どうしても負けられない戦いでした。
いざ出陣と、玄関で利家が具足をつけているときに、まつは金蔵から金子の入った菖蒲革の袋、また金銀を詰めたなめし革の袋を持ち出してきて、「いまは金銀の貯えより、手ごわい佐々殿を撃ちまかすには、人数を抱えなさることこそ先淑です。でも、いまとなっては仕方がありません。この金銀を召し連れなされ、鎗でもお突かしになったらいいでしょう」とポーンと利家のもとに二つの袋を投げつけました。
利家は、この妻の皮肉に「出陣の門出を祝うのが、妻として当然なのに、この俺を怒らすとは何事だ。お前こそ敵だ」といって、刀に手をかけ妻を斬ろうとします。
まわりの女房たちが、やっとその腕をおさえて、気をしずめ、利家は妻への腹立たしさをおさえて出陣しました。
まつは日頃、夫・利家が武器の購入や兵士を集めるよりも、算盤をはじいて蓄財にいそしむ姿に不満を抱いていました。
このため、つい、その不満が出たこともありますが、まつには、したたかな読みがありました。
佐々成政との戦いでは、負けが重なっていて、利家だけでなく、家臣もまた及び腰で、敗戦に向かっていくのが見て取れました。
そこで、戦場に赴く前に、主従に緊張感を持たせるための「喝」でした。
そして、この まつ の荒療治が効いたのか、発奮した前田軍は、佐々軍に勝利し、北陸の勇者としての足掛かりを築くことができました。
★徳川家康からの人質の要求
慶長4年(1599年)、夫・利家が62歳で亡くなります。
前年の秀吉の死からわずか1年、家康の暴走をおさえる重鎮だった利家の死によって、豊臣家に暗雲がたちこめ始めます。
それは、前田家も同じで、家康は前田家潰しをもくろみ、当主・前田利長が家康暗殺を企てたとの偽りの報告をさせて、加賀へ大軍を派遣しようとしました。
利長は家康と一戦を交える覚悟をし、急ぎ客将の高山右近に命じ、金沢城の惣構えを修理させ、城を要塞化して戦闘準備に入ろうとします。
しかしそれは、前田家を破滅の淵に追いやることになると、落髪して芳春院と号するようになった まつ は思い、利長を思い止まらせます。
そしてさらに、家康が、利長に身の潔白の証明として、人質に まつ を求めたとき、利長に対して、
「意地を張つてはなりませぬ。侍は家をたてることが第一です。私はもう年老っているし、覚悟もできています。この母の身を案じて、家をつぶしてはなりませぬ。あなたはこの母を捨てなさい」
ここは、我慢しでも家を守るべきとだと、まつは、まだ末熟な息子・利長の暴走を危ぶんでの発言でした。
こうして、関ケ原の戦いを前にした慶長5年5月、まつは、伏見から江戸に向かったのでした。
まつは、この後、14年間、江戸での人質生活を送ります。しかし、この彼女の勇気が、加賀百万石という外様大名第一の大藩をつくる基礎となったのでした。
★まつの最期
豊臣家が、大坂冬の陣、夏の陣で滅亡した翌々年、死期を感じたまつは、71歳の老体をいとわず、金沢からわざわざ京都に出かけ、おねと心ゆくまで昔話に花を咲かせたというエピソードが残っています。
このような戦国時代、男性はもとより、女性とっても、一日一日が本当に大変な時代だったと思います。
ここでの、まつ と おね の会話は、どんな内容だったのでしょうかね。
それぞれの夫の不平・不満、悪口が、半分以上だったような気がしますね(笑)