貞観8年(866年)、平安京の宮城内にある応天門が、放火をされ、焼け落ちるという事件がありました。
そして、この事件の犯人が誰かということで、世間は大きく騒ぎます。
当初、犯人は、朝廷ナンバー2の源信と言われていました。このため、源信は、朝廷内での権力を失います。
しかし、その半年後、今度はナンバー3の伴義男が犯人だと申し出る人物が現れます。
結局、伴義男が犯人ということで流罪となるのですが、この事件には不可解な点があり、事件後に最もメリットを受けた人物から犯人を特定すると意外な真犯人像が見えてくるのでした。
今回は、この応天門の変について、御案内します。
★応天門の変の直後の状況
放火された応天門とは、国の重要な儀式を執り行う朝堂院の正門です。
また、当時、朝廷の施設が火災にあうのは凶事と恐れられていたため、都の人々は大きなショックを受けます。
そして、事件の直後、朝廷内でナンバー3の大納言の伴善男は、「放火の犯人は左大臣の源信である」と訴え出ました。ちなみに、源信は朝廷内ナンバー2の人物でした。
しかし、源信は、自分は犯人ではないと否認します。
この事件の真相解明のため、朝廷内のトップである太政大臣の藤原良房は源信に対して取り調べを行いますが、何故か取り調べを中断してしまいます。そして、源信を放免してしまったのでした。
しかしながら、犯人の最有力に挙げられた源信は、犯人として罰せられなかったものの、この事件以後は、朝廷内での権力をすっかり失ってしまったのでした。
★応天門の変の新たな犯人説の浮上
事件から半年後、事件は、再び動き出しました。
大宅鷹取という下役人が、なんとナンバー3の伴善男とその息子が犯人だと申し出たのでした。
確かに、その当時、伴善男にとって源信は朝廷におけるライバルであり、二人の不仲は有名でした。
このため、伴善男は源信に罠を擦り付けて、朝廷内から蹴落とそうとしたというのでした。
世間は、この意外な新しい犯人説に、再び大騒動となります。
そこで、清和天皇は、この事件の解決のために、藤原良房に摂政を命じます。
こうして、摂政の地位を得た藤原良房は、伴善男と息子、更にはその周辺の者も徹底的に厳しく取り調べを行います。
そして、ついに、伴善男の従者が拷問に耐え切れず、「伴善男親子が、源信在陥れるために放火した。」と自白したのでした。
これにより、伴善男親子は、伴一族とともに伊豆に流罪となり、大和朝廷の大伴氏から続いた名門・伴氏は失墜したのでした。
★しかし浮かび上がる疑問点
真犯人の発覚ということで、放火事件は解決したかと思われましたが、一方で、都の人々は、犯人が伴善男ということに疑問を持っていました。
というのは、応天門は伴氏の父祖の大伴氏が造営し守ってきた門で、かつては大伴門とも呼ばれていた門でした。
つまり、応天門は、朝廷内の建物ではあるが、大伴氏の朝廷内での存在価値を示すために造営された門でした。
したがって、伴善男が一族の存在価値を示す大事な門に放火するとは、どう考えても違和感があるのでした。
しかしながら、一方で、当時のナンバー3伴善男と、ナンバー2の源信は仲が悪く、陥れようとしたとしても不思議ではないのも事実でした。
更に、伴善男の祖父・大伴継人は、長岡京で起きた藤原種継暗殺の罪で処刑されていました。
この事件で、大伴氏は、政界における権威を大きく失ってしまっていました。そこで、伴善男は一族の再興を図るため、応天門に放火してライバルの源信に罪をなすりつけようとしたのではないか、という意見もあるのでした。
★ここで浮上する第3の犯人説
ここで、真犯人をあぶり出すために、この事件が起きて、最もメリットを受けたのは誰なのかを考えてみましょう。
それは、明らかに藤原良房でした。この事件を機に、源信も伴氏も政界の出世街道から脱落しましたが、藤原良房は天皇に代わって政治を執り行う摂政にまでなっているのでした。
つまり、応天門の変が生じて権力を独占することできたのでした。
そもそも藤原良房にとっては、新勢力である源信は邪魔な存在だと言えました。
そして、また一族の再興を狙う伴善男も、藤原良房にとっては、非常にうっとうしい存在でした。
伴氏は、古代から続く豪族大伴氏の流れをくみ、武門の誉れも高く、もし仮に一族が団結でもしたら武力のない藤原氏の立場は危うくなるのは明白でした。
そこで藤原良房は、まず伴善男に「源信が犯人だ」と告げロをするように指示します。
そして、その取り調べでは、証拠が無いのが分かっているので、うやむやで終わらせますが、源信は失脚させます。
次に、大宅鷹取に「伴善男が真犯人だ」と訴えさせて、伴善男も失脚させたという陰謀を企てたのではないかというのであれば、全てに筋が通るのでした。
しかしながら、現在となっては、これはあくまで推測にすぎません。結局の真犯人は、分からないままです。