吉田松陰は、明治維新を成し遂げていった志士たちの精神的指導者と言われています。
明治維新で活躍した長州出身の志士たちは松陰の松下村塾の出身者たちでした。
そして、彼たちは、松陰から、人を身分の分け隔てなくヤル気のある者を登用していくことや、今後の日本の進むべき方向性は世界観を持って考えることなどを学びます。
さらに、その影響が明治維新という階段を駆け上がる原動力となりました。
一方、松陰の人生は、安政の大獄で亡くなるまでの僅か30年でしかありません。
しかし、松陰は、亡くなる間際、自身の志を継いでくれるものが必ず現れると信じて、現世から旅立っていくのでした。
今回は、この吉田松陰のお話について、ご案内します。
目次
★吉田松陰は十九歳で兵法の師範となる
吉田松陰は、文政十三(一八三〇)年八月四日、長州藩士の子として生まれました。
そして、六歳の時、父の弟である吉田大助の養子となります。
松陰は、この吉田大助に厳しく育てられるとともに、兵学者としての教育を受け、十九歳の若さで兵法の師範となりました。
さらに、二十歳を過ぎると見聞を広めるため全国をめぐる旅に出ました。
★吉田松陰は黒船に乗り込む
その旅の途中、日本に震撼が走る出来事が生じます。
嘉永六(一八五三)年のぺリー来航です。
ペリーは幕府に開国を要求します。
これに対して、国内は大騒ぎとなりました。
松陰は、この知らせを聞くや否や、黒船を見にいき、「これまで学んできた兵法は、全く役に立たない。今後は西洋のことを知り、西洋の兵学を学ばなくてはならない」と考えます。
それに賛同したのが長州藩出身の友人・金子重之助です。
二人は、深夜、小舟で黒船に近づき乗り込むことに成功し、アメリ力に連れて行ってくれるよう依頼します。
黒船側も、この突然の来客に面をくらいますが、そんな二人の申し出を受けることもできず、下田に戻されてしまいました。
一方この当時、幕府の許可なく外国へ渡航することは固く禁じられていました。
このため、二人は密航を企てた罪に問われてしまったのでした。
★吉田松陰は投獄されて身分制度に疑問をもつ
そして、半年後、二人は長州藩内の牢獄に入れられることになりました。
松陰が入れられたのは武士階級の牢獄で、一人一室が与えられる野山獄でした。
一方で、農民出身の重之助が入れられたのは、雑居房で衛生状態がよくない岩倉獄でした。
元々体が弱かった重之助は獄中で衰弱死してしまいます。二十五歳でした。
松陰は、重之助の死に「志も同じ、犯した罪も同じなのに、身分が違うとなぜこれほど待遇が変わってしまうのか」と衝撃を受けます。
★吉田松陰と高須久子との出会い
野山獄には十二の独房がありました。そこで松陰は、多くの囚人たちと知り合います。
その中には、獄中生活四十八年、七十五歳になる大深虎之允や、家族から見放され牢獄に押し込められた偏屈者の富永有隣、更には元寺子屋の師匠で在獄六年になる吉村善作など、獄中でしか出会うことの出来ない個性的な人物たちとの出会いがありました。
そして、その中にただ一人女性がいました。高須久子です。
松陰は、彼女が高い身分の武家の出でありながら、身分の分け隔てなく接してくれることと、彼女の純粋無垢な性格に惹かれて親しく話すようになり、多くの影響を受けていきました。
また、獄中生活の中で、松陰は、それぞれの囚人が互いに得意なことを教え合うということを始めます。
獄中で、松陰は「人賢愚ありと雖も、各々一、二の才能なきはなし」という言葉を残しているのでした。
★吉田松陰が松下村塾を始める
安政二(一八五五)年十二月、松陰と久子に別れの時が来ます。
松陰に、野山獄を出て自宅で謹慎するようにとの命令が届いたのでした。
松陰との別れに当たって、久子は「鴨たってあと淋しさの夜明けかな」(あなたが去ったあとは、夜明けも寂しいものになってしまいます)という句を詠みました。
そして松陰は、萩の自宅に戻り、松下村塾を開きます。
それは、彼が「草莽崛起」を起草する三年前のことでした。
★吉田松陰の松下村塾での教え
松下村塾には、松陰を慕って、多い時には一日およそ三十人の塾生が集まりました。
松陰は、獄中で得た経験から、身分に分け隔てなく塾生を受け入れました。
そして、武士も町人も様々な身分の人が集まり、同じ部屋で学んだのでした。
松陰は、松下村塾の中で、「飛耳長目」(耳をとばして目を長くする。多くの情報を入手し、それに基づいて行動しなくてはならない)という言葉を合言葉に掲げます。
その趣旨は、今の日本に必要なことは、自分たちで考え、結論を出していくことだと考えたのでした。
また、塾生の中でも松陰が高く評価していたのが久坂玄瑞でした。
玄瑞は身分こそ高くはありませんでしたが、才能も気概も一流と評され、松陰に代わって玄瑞自身が講義をすることもありました。
その久坂玄瑞に誘われて、塾の門をたたいたと言われるのが高杉晋作です。当時十九歳、長州藩上級藩士の息子だった晋作は明倫館という藩校に通っていましたが、それに飽きて、何度も落第を繰り返していました。
そんな、晋作にとって、松下村塾での教えは非常に刺激的で楽しいものでした。
★吉田松陰は安政の大獄で投獄される
一方、その頃、アメリカが日米修好通商条約を結ぼうと幕府に迫っていました。
この条約が結ばれると外国人が国内で起こした事件を日本が裁けなくなるなど、日本は不利な状況に追い込まれます。
そんな中、松陰は「西洋歩兵論」という論文を書きます。
その内容は、西洋の歩兵制を採用し、身分にとらわれず、志があれば足軽や農民からでも人員を集めて武力を強化するべきだというものでした。
当時、その考えは、今までにない画期的な考え方でした。
しかし、この頃、京都や江戸では幕府や封建体制に異議を唱える思想家たちが、次々と逮捕されていました。
世にいう「安政の大獄」です。
松陰は、このような幕府の動きを知って、今後の日本を幕府に任せてはおけないという考えがより強くなりました。
そして松陰は、「幕府を倒すため、過激な行動をとれ」と主張するようになります。
そして、その言動から塾生と一定の距離ができてしまうのでした。
さらに、その松陰の言動は長州藩に知られる所となります。
そして、安政五(一八五八)年十二月二十六日、松陰は再び萩の野山獄に投獄されてしまったのでした。
★吉田松陰が「草莽崛起」起草する
そして、松陰は、再び投獄された後、塾生との溝が深まってします。
松陰としては、いくら行動をせよと訴えても彼らはついてこない、ならば一人でやってやる、松陰は塾生たちに断絶状を書き送りました。
そんな時、松陰の心の支えになったのは高須久子でした。
そして、改めて久子の生き方に接することで、松陰は、自己の固執した考えを改め始めます。
新しい時代を築くには、誰でも参加できることが大切なのではないか、だから多くの者に呼びかけよう。
そうすることによって、たとえ自分一人が立ち上がり、倒れてもきっと志のある者が後を継いでくれるに違いない、と思うようになったのでした。
安政六(一八五九)年四月七日、松陰はその思いを文書にしたためます。「草莽崛起」として後世に知られる論文です。
「今の幕府も諸侯も最早酔人なれば扶持の術なし。草莽崛起の人を望む外頼みなし」
(混乱する日本の中で、幕府も藩もあてにはならない。今の日本を改革するには、身分に分け隔てなく志ある者が、一人一人自覚を持って立ち上がらなくてはならない)
また、松陰は晋作宛てに、以前塾生たちに怒ったことを悔いる手紙を書いています。
そして、出獄した暁には、塾生たちと共に行動しようと、考えるようになっていたのでした。
★吉田松陰が刑死する
しかし、このとき、もう既に松陰の運命を変えることはできませんでした。
松陰は、江戸に移されます。
そして、七月九日、松陰に対する取り調べが、江戸幕府の評定所で始まりました。
一方、その頃、江戸の長州藩邸には高杉晋作ら塾生たちが集まり松陰の身を案じていました。
晋作たちは松陰を獄から助け出そうと画策していたのです。
七月中旬、松陰は晋作に手紙をしたためます。
「死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし 生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし」(死んで朽ち果てない自信があれば死んでもよろしい。生きていることが大きな仕事につながるのならば、どんな時でも生き続けなさい)
そして、安政六年十月二十七日、松陰は刑死となりました。享年三十でした。
★吉田松陰の意思は教え子たちに受け継がれる
文久三(一八六三)年六月、高杉晋作は「奇兵隊」をつくりました。
この奇兵隊は、松隆の「草莽崛起」の考え方を受け継ぎ、志があれば身分にかかわらず誰でも入ることができました。
他にも松陰の教えを受けて、「一新組」など次々と誕生しました。
そして、これらの軍隊が長州軍の主力となり、幕府軍を打ち破っていきます。
その後、松陰の死から九年、明治維新が成し遂げられました。
そして、新政府の要人には、伊藤博文、山県有朋ら、松下村塾の塾生たちが名を連ね、明治の新しい世を築いていきました。
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★吉田松陰は高須久子の中で生き続ける
明治維新が成し遂げられたその年、萩の野山獄から高須久子が出獄したと言われています。
およそ十六年の獄中生活でした。
久子は出獄後も死ぬまで松陰の書を肌身離さず持っていたと言われています。
松陰の遺言『留魂録』にはこう書かれています。
「私は三十歳。四季はすでに備わっており、花を咲かせ、実をつけでいるはずである。それが単なるもみ殻なのか、成熟した粟の実であるのかは私の知るところではない。もし同志の諸君の中に、私のささやかな真心を憐れみ、受け継いでやろうという人がいるなら、それはまかれた種が絶えずに、穀物が年々実っていくのと同じである」松陰は、自分を穀物にたとえて、塾生たちに後を託したのでした。