有名な話ですが、織田信長は赤ちゃんの頃からカンが強く、直ぐに乳母の乳首をかみ切ってしまっていたと言います。
しかし、信長は、唯一、養徳院だけは乳首をかまず、美味しそうに乳を飲みました。
このため、信長と、養徳院の実子・池田信輝とは、乳兄弟として、幼き頃から仲良く遊んで養徳院のもとで成長しました。
これにより、養徳院は、「大御乳(おおおち)さま」と呼ばれ、実子・池田信輝(恒興)は知行を与えられ大名に取り立てられるなど、一族繁栄につながっていきます。
そして、さらに、養徳院が、手塩にかけて育てた孫・池田輝政は、関ヶ原の戦いでの功績が認められ、播磨・姫路52万石の大大名へと大出世を遂げました。
今回は、この内容について、御案内していきます。
目次
★養徳院が織田信長の乳母となった経緯
備前岡山藩の池田家の家紋が蝶なのは、池田信輝の母が信長の乳母であり、織田家につくした功績によって与えられたものです。
この乳母は、後日、夫が亡くなった後、出家して養徳院と号するが、俗名は不詳です。
池田氏は、美濃国池田郡(岐阜県揖斐川町・池田町)に住みついてきた小土豪でした。
養徳院の夫である池田恒利は、近江の一宇野城主・滝川貞勝の子で、養恵院の父・池田政秀に見込まれて婿養子になりました。
養徳院は、池田恒利との間に三人の男の子を産みます。
そして、三番目の子・勝三郎(のちの池田信輝)が、誕生した頃、尾張国勝幡城(愛知県稲沢市)の城主・織田信秀は、わが子吉法師(後の信長)の乳母を探していました。
『池田家履歴略記』によれば、吉法師はカンの強い子で、乳母の乳首をかみ切ってしまうため、乳母が何人も交代していました。
このため、織田信秀は困ってしまい、近習の滝川一益に相談したところ、一益が良く知る池田恒利の妻・養徳院が出産したばかりで、しかも乳がよく出たため、吉法師(後の信長)の乳母となったのでした。
★養徳院のもとで成長する信長
養徳院は、吉法師の乳母となるため、実子・勝三郎を抱いて織田家に入りました。
そして、今まで、沢山の女性の乳首をかみ切った吉法師ですが、養徳院の乳首は噛まず、美味しそうに乳を飲みました。
こうして、乳兄弟になった吉法師と勝三郎は、仲よく遊んで、養徳院のもとで成長していきました。
★夫・池田恒利が亡くなる
一方、養徳院の夫・恒利は、妻を吉法師の乳母に出した四年後に病気で亡くなってしまいます。
このため、養徳院は髪をおろし、吉法師と勝三郎を育てながら、早くも養徳院と号しました。
★乳兄弟・勝三郎の出世
このように成長していった吉法師と勝三郎ですが、元服した勝三郎は、当初は恒興と名乗ってましたが、信長の父・織田信秀から信の一字をもらって池田信輝と称しました。(史料によっては「池田恒興」としているものもあります。)
そして、終始、信長に仕えて忠節に励みます。
その結果、池田信輝(恒興)は、信長から尾張犬山城に一万貫の地をつけて賜り、さらにその後、摂津で十万石の大名に大出世しました。
★小牧・長久手の戦いで敗戦
その後、本能人の変で、信長は亡くなってしまいます。
そして、信長の実質的な後継者となった羽柴秀吉と、徳川家康との唯一の合戦・小牧・長久手の戦いがはじまります。
この戦いで、池田信輝(恒興)は、当初、徳川軍に所属しますが、秀吉の調略にのり、羽柴軍に寝返ります。
そして、膠着する戦いの中で、徳川軍に奇襲攻撃をかけますが、失敗し、26歳の長男・
之助、娘婿の森長可とともに奮戦して、そろって戦死しまいました。
★養徳院に対する秀吉の気づかい
この当時、養徳院は、信長の乳母として「大御乳さま」と呼ばれ、秀吉などから尊敬されていました。
そして、秀吉は、一瞬にして息子と孫らを小牧・長久手の戦いで失った養徳院に対して、「それさま御力おとし、御愁歎、推量申し候」と手紙を送り、信輝父子の供養のためにも、残された池田輝政らの孫の面倒を見てほしい、更に、この秀吉を今後は信輝と思い、ご覧になってほしい旨を伝えて、なぐさめました。
そして、秀吉は、遺児・輝政に父の遺領の相続を許すとともに、大垣城を引き継がせました。
★養徳院の池田信輝、織田信長への想い
養徳院は、我が子・池田信輝の菩薩を弔うため、京都の妙心寺に護国院を建てます。
そして、我が子同様に大切に育て上げた織田信長のためにも、同じ京都の妙心寺に桂昌院を建て、信仰厚い晩年を送り、94歳の大往生をとげました。
★その後の池田家
池田氏の当主となった池田輝政は、関ケ原の戦いでは家康方に味方します。
ここで、池田輝政は、関ヶ原の戦いの前哨戦となった織田秀信が守る岐阜城攻略(岐阜城の戦い)に参戦し武功を挙げます。
そして、この岐阜城攻略の功績から播磨姫路52万石に加増移封され、初代姫路藩主となりました。
ちなみに、52万石は、全国の大名の中で八番目の知行高に当たります。
このように、池田家躍進には、信輝・輝政親子の真に命がけの戦いの結果であることは、間違いありませんが、この躍進のきっかけをつくったのは、明らかに養徳院の功績であると言えます。
養徳院は、若い頃からの池田家の苦労、繁栄、躍進、敗戦、そして大大名へと、その移り変わりを目の当たりにして、94歳で大往生するのですから、充実した波乱万丈の人生だったと思われますね。