歴史上の人物

石川数正は引き抜きされて徳川家康から豊臣秀吉に寝返ってお家の不幸を招いてしまった

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 裏切りが当たり前の戦国時代にあって、徳川家臣団の結束力の強さは、他の戦国大名の比ではありませんでした。

 これを、例えて「犬のような忠誠心を持つ三河武士」などと言われ、その一枚岩の団結が、家康を天下人に押し上げた原動力だったと言われています。

 しかし、なかには例外もあります。

 それも、家康の二人いた家老の一人、石川数正が岡崎城出奔という事件を起こし、秀吉方に寝返ってしまったのでした。

 そして、この寝返りが、後々の徳川の世の中になって子孫にまで不幸を招いたとも言われています。

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 今回は、この石川数正の岡崎城件出奔についてご案内します。

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★徳川家康と人質時代を一緒に過ごした石川数正

 石川数正の石川家は、松平(徳川)家において、三河譜代の家臣の中でも常にトップクラスに位置づけられていました。

 数正の祖父にあたる石川清兼は、家康の祖父・松平清康の重臣で、清兼は家康誕生のとき、募目役という、誕生時のセレモニーの中でもっとも重要な役を勤めていました。

 数正の生年が不明なので、家康との年齢差は分かりませんが、駿府の今川義元の「人質」時代は、遊び相手兼警固役として駿府に随従しているので、家康より三つか四つ年長だったと思われます。

 そして、家康が今川義元の死を契機に今川家から独立したあと、信長と同盟して三河一国を支配するようになりますが、はじめのうち、東三河を重臣の酒井忠次にまかせ、西三河を数正の叔父にあたる石川家成に任せていました。

 つまり、この当時は、この二人が「両家老」と言われていたのでした。

★徳川家の家老・石川家

 その後、徳川家は、永禄十二年(1569年)に今川氏真を逐って遠江まで勢力を拡大します。

 すると、石川家成を遠江支配の要衝である掛川城に移して、西三河は家成の甥・数正に任せたのでした。

 つまり、数正が酒井忠次と並び、このころの徳川家の家老の一人になっていたのでした。

 よく 「徳川四天王」と言われると、酒井忠次、本多忠勝、榊原康政、井伊直政の四人を指していますが、本来なら、酒井忠次と並んで家老だった石川数正が「徳川四天王」の一人に入ってしかるべきところでした。

★石川数正は家老として羽柴秀吉の窓口となる

 その後、酒井忠次と石川数正の「両家老」体制は長い間続いています。

 家康は、年齢も上である酒井忠次の方をはじめは重く用いていました。

 このため、織田信長との折衝にはもっぱら忠次の方が当たっていました。

 ところが、その信長が天正十年(一五八二)の本能寺の変で明智光秀に殺された頃から、忠次の出番が少なくなってきました。

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 そして、忠次に代わり、信長のあと急速に台頭してきた羽柴秀吉との折衝には、もっぱら石川数正が当たるようになってくるのでした。

 この変更は、年齢的なものではないかと思われます。

 そして、天正十一年(一五八三)四月二十一日の賎ケ岳の戦い後、家康が秀吉に戦勝祝いの使者を送っていますが、その使者になったのが数正でした。

 数正はこのとき、名器のほまれ高い「初花肩衝」という小さな茶入れをもつて秀吉のもとを訪れているのでした。

★石川数正は、小牧・長久手の戦い後の折衝を引き受ける

  その後、秀吉・家康は、小牧・長久手の戦いで衝突することになります。

 この戦いは、秀吉が、信長二男信雄の家老たちに対し抱きこみを図ったことで、信雄が怒って三人の家老を殺し、秀吉に敵対し、家康がこれに同調したことから始まったものでした。

 家康としては、秀吉が、これ以上信長の後継者として振る舞うことに嫌悪感を持ち、ストップをかける目的だったと思われます。

 戦いの結果は周知のように、局地戦では家康が勝ったものの、軍勢の多さから秀吉側の優勢は動かしようがなく、その後、秀吉が信雄と単独講和を結んでしまったため、戦う名分を失った家康も秀吉との講和に応じたのでした。

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 そして、この小牧・長久手の戦いの講和の使者として秀吉のところに遣わされたのも、数正でした。

 数正が大坂城で秀吉と会見して、二人の間にどのようなやりとりがあったかは分かりませんが、「人たらしの天才」などといわれる秀吉のことなので、数正の心を巧みにつかんだのではないかと思われます。

 そして、講和交渉の結果、家康の二男於義丸(のちの秀康)が秀吉の養子として大坂に行くことになりました。

 これは、名目は養子ですが、秀吉と家康の力関係を考えると、これは実質的には人質でした。

 そして、併せて、交渉役の数正も自分の子どもを大坂城に人質として出したのでした。

★石川数正は折衝の中でしだいに徳川家で孤立し始める

 そして、その後に家康が上洛して秀吉に挨拶をするかどうかという重要な折衝にも、家康は数正だけを遣わせます。

 この時の家康の態度は、ご承知のとおり、なかなか煮え切らないもので、どうしても上洛しようとせず、秀吉は実妹を離縁させて家康に嫁がせ、更には実母を徳川方に人質に差し出してようやく家康は上洛するのでした。

 この折衝を担当した数正は、次第に徳川家臣団の中にあって浮いた存在になってしまったようでした。

 おそらく、折衝役の数正は、秀吉と何回も会ううちに、秀吉びいきの考え方を、家康と家臣団に言ってしまったのだと思われます。

 秀吉の巧みな話術は、どうして天下統一を急がなければならないか、そのために家康の協力がどれだけ大事かを刷りこまれたのではないかと思われます。

 ところが、数正の主君である家康は、上洛を拒み続けていたのでした。

 「秀吉に頭を下げた方がよい。早く上洛して下さい」という数正と、それを拒む家康および家臣団の対立が生まれてしまったのでした。

 しかも次第に、「数正は秀吉の肩ぼかりもつ」といわれるようになったのではないでしょうか。

 このため、数正としては、徳川家のなかで居心地の悪さを感じるようになっていったものと思われます。

  一説には、秀吉がわざと家康周辺に「数正は秀吉と通じている」と噂を流し、次第に数正と他の家臣との間に気まずい空気が流れるように仕向けたとも言われています。

 これについての真偽は分かりませんが、いかにも秀吉ならやりそうな気はします。

★石川数正はとうとう徳川家康を裏切ってしまう

 このような状況に追いつめられた形の数正は、岡崎城を出奔し、秀吉のもとに走ったのは天正十三年(1585年)のことでした。

 事前に、秀吉から「うちに来い」といわれていなければ、こうした出奔はありえないので、秀吉が家康に内緒でへッド・ハンティングを策していたのだと思われます。

 こうして、徳川家の二人の家老のうち、一人が秀吉に引き抜かれることになったのでした。

★しかし石川数正は不遇の日々を過ごす

 その後、秀吉に引き抜かれた数正は、秀吉のもとでどのような待遇を受けたのでしょうか。

 秀吉の家臣になって直ぐに、和泉国で八万石の大名となっています。

 家康時代の数正の石高がどれくらいだったか分かりませんが、おそらく家康のときの二倍か三倍には相当すると思われます。

 そしてさらに、天正十八年(1590年)七月の大がかりな大名の配置換えにあたって信濃松本城十万石に転じています。

 しかし、それ止まりでした。

★石川数正の石高と徳川家の家臣団との比較

 ちなみに、この天正十八年(1590年)七月の大がかりな大名の配置換えでは、家康が関東240万石に転封されていますが、その段階で、本多忠勝・榊原康政が10万石、数正よりはるかに年が若い井伊直政が12万石与えられていました。

 すでに「両家老」といわれたもう一人の酒井忠次は第一線を退いており、数正がもしそのまま徳川家に残っていれば彼らより上、つまり、秀吉から与えられた十万石よりは上だったものと思われ、意を決して徳川家を飛び出した割にはあまり優遇されていないとの印象をもってしまうのでした。

★そして「裏切り者」のレッテルを貼られて冷たい風当たりを受ける

 優遇されなかったばかりか、数正に対する世間の風あたりも冷たいものがありました。

 そのころ、「とくかはの家に伝わる古帯、落ての後は木の下をはく」といった狂歌があったと言われています。

 「古帯」は、伯者守だった数正にかけたものでした。

 また、江戸時代に入り徳川の時代になると、更に手きびしい言われ方をしています。

 これは、「武士は二君に仕えず」とか「二君にまみえず」といういい方をする武士道徳との関係もありますが、家康を裏切った形の数正は非難の対象にすらなっているのでした。

 ここでは一例だけあげておこう。江戸時代の儒学者新井白石は、その著書である『藩翰譜』の中で、数正の、前半生の功績をたたえながら、「其の晩節に及んで忽ちに年頃の志を変じ、累代の君に背き参らせ、一生の功を空しくし、上は父祖の名を汚し、下は子孫の家を滅ぼせしこと、誠に惜しむべき人なり」と論評を加えています。

 つまり、岡崎城を出奔し、晩節を汚したとしているのである。

 ちなみに、この新井白石がいう「子孫の家を滅ぼし…:」とは、数正の死後に、数正の三人の子、すなわち長男康長(松本六万石)二男康勝(信濃筑摩郡一万五千石)、三男半次郎(五千石)が慶長18年(1613年)の大久保長安の事件に、連坐し、流刑や所領没収処分にあったことを意味しているのでした。

 結果的にこのようになってしまいましたが、あのまま豊臣の世が続いたならば、また違った結果があったかもしれませんね。

 

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