歴史上の人物(女性)

お鍋の方は織田信長の最後の女性

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 織田信長の妻というと、斎藤道三の娘で正室の濃姫や、嫡子・信忠、信雄などを産んだ吉乃などが思い出されますが、お鍋の方も信長の晩年、安土城の実質的な御台として、当時正室を持たなかった奥を差配しました。

 彼女も、吉乃と同様、夫を亡くした未亡人で、信長と出会った頃は、夫を亡くした失意の中にいました。

 どうやら、信長は、失意にいる未亡人が好みのようですね。

 今回は、このお鍋の方をご紹介します。

★お鍋の方の生い立ち

 お鍋の方は、琵琶湖の南岸に注ぐ日野川河口(滋賀県近江八幡市)の豪族・高畠新二郎の娘に生まれたとされています。

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 そして川を三十キロほどさかのぼった山上城(滋賀県東近江市)の小倉右京亮賢治に嫁ぎました。

★夫・小倉右京亮賢治の戦死

 お鍋の方が嫁いだ山上城は、近江商人が行き来した伊勢に抜ける八風街道と千種街道の両道を見張る要衝の地にありました。

 永禄七年(1564年)、佐々木六角氏と戦った夫は敗れてしまい、夫・小倉右京亮賢治は切腹となり、二人の息子は佐々木六角氏に人質に取られてしまいました。

 

★お鍋の方が信長に助けを求める

 このような状況に悲嘆にくれるお鍋の方は、小倉家が密かに内通していた岐阜城の信長に救援を求めました。

 小倉家と信長の関係は、かつて信長が京都に出て斎藤義竜の暗殺団に狙われた際、この危機を逃れて尾張に急いで戻る信長に、亡き夫・賢治が協力したことがありました。

 この協力のお陰で、八風峠越えの難路を、信長は馬で一気に駆け抜けて、無事帰国することができたのでした。

 

★お鍋の方をいとおしく思う信長

 お鍋の方に助けを求められた信長は、彼女をいとおしく思うのでした。

 恐らく、信長は、お鍋の方に亡き最愛の人・吉乃の面影を見ていたのではないでしょうか。

 夫に先立たれて失意の中にいる吉乃と同じ境遇が、信長にお鍋の方を大事にしてやりたいという気持ちを抱かせたと思われます。

 お鍋の方は、そのまま岐阜城に滞在して、やがて信長の側室になりました。

 その後、信長は上洛のための戦いで、観音寺城で佐々木六角氏を破って、お鍋の方の二人の息子は帰ってくることができました。

 

★お鍋の方が安土城の御台所へ

 その後、信長は、居城を岐阜城から安土城へと移しますが、お鍋の方を安土城に連れていきます。

 信長は濃姫の死去後、正室がいなかったので、お鍋の方が信長の御奥を取り仕切って、実質的な御台所となりました。

  お鍋の方は、信長との間に二男一女をもうけます。

 

 最初の男子が天正元年(1573年) 生まれの信吉で幼名を杓(しゃく)といいました。

 「お鍋が産んだ子だから、その子はお杓がいい。鍋に杓子はなくてはならぬものだから」といって信長が名付けました。

 その三年後には、信高が生まれました。

  一方、お鍋の方が先夫との間にでき、無事に佐々木六角氏から取り戻した甚五郎と松干代は、信長にもちいられ、本能寺の変の際、松干代は光秀方と戦って亡くなりました。

 

★本能寺の変のあと

 信長が本能寺の変で没した後、秀吉は大徳寺で盛大な葬儀を執り行い、その大徳寺の境内に墓を建てました。

 このときにつくられた信長とその嫡子・信忠の野辺送りの位牌は、岐阜市の崇福寺に納められました。

 これは、お鍋の方が秀吉に願い出て、行われたものだと言われています。

 この崇福寺の本堂に立つと、金華山の空高くに、長良川を隔てて、岐阜城の天守閣が綺麗に見ることができます。 

 そして、崇福寺本堂の裏側に、高さ四十センチほどの信長・信忠父子の位牌が納められています。

 また、この崇福寺にお鍋の方の手鏡とともに、彼女が書いた二通の黒印状(書状)が残っています。

 一通は、信長の死後四日目に、お鍋の方が崇福寺に書き送ったもので、その内容は「かくべつに折紙に書いて申します。この崇福寺は信長様の位牌所でありますので、何人といえども寺地を違乱しようとする者があれば、おことわりするがよろしい。そのために一筆申しあげます」というものです。

 また、もう一通は、翌年12月、秀吉の命によって長良川近くに陣を・敷いた丹羽長秀に対し、お鍋の方が「こちらへ来られたとのこと、うれしく思います。長良に陣取るよし、その内の崇福寺は信長様、信忠様親子の忌中ですから、寺、大門に放火や乱暴狼籍を禁じる制札をかかげ、一人として寺内に入れぬよう取り締まって下さい」との書状を出しているのでした。

 この二つの黒印状は信長を想い、位牌所である崇福寺を守り通そうとする強い女の意志を感じさせますね。

 

★その後のお鍋の方

 秀吉は、お鍋の方に化粧料五百石を与えて保護し、信高も秀吉から二千六十石をもらいました。

 しかし、関ケ原の戦いで信吉、信高は西軍についたため、所領は没収されてしまいました。

 そして、徳川の天下となり、住むべき場所を失ったお鍋の方に手をさしのべたのは淀殿でした。

 お鍋の方は、五十石をもらって、静かな余生を送りました。

 そして、亡くなった際には、大徳寺総見院の信長の墓の横に、手厚く埋葬されたのでした。

 

★最後に

 お鍋の方は、信長に献身的に仕えた生涯でした。

 彼女は、その容姿と、気立ての良さから、信長は側室以上の地位を与え、また彼女もその期待に応え、安土城の奥向きをよく取り仕切りました。

 そして、信長の死後、その菩提を弔いつづけ、正室にも匹敵する役割を果たしたので、秀吉も淀殿もお鍋の方を大事にしたのでした。

 

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