嘉永六(一八五三)年六月、アメリ力のべリー率いる艦隊が浦賀に現れます、
鎖国をしていた日本は、この黒船来航に大騒ぎに陥ります。
そして、徳川幕府は、開国か決戦かを迫られる中、アメリ力の圧力に屈して開国をします。
すると、これをきっかけとして、雪崩を打ったように、徳川幕府は、諸外国と次々に不平等な条約を結ぶことになっていくのでした。
このような状況に、当時十九歳で江戸にいた龍馬は、日本の将来を真剣に考え始めます。
今回は、明治維新の大きなきっかけとなった薩長同盟が結ばれる過程での坂本龍馬の活躍についてご案内します。
目次
★坂本龍馬と勝海舟との出会い
黒船来航から九年後、二十八歳となった龍馬は、土佐瀋を脱藩して、再び江戸に出ていきます。
そして、志士としての活動を行う中、暗殺のチャンスを狙うため、江戸幕府の軍艦奉行並・勝海舟に面会を申し入れます。
龍馬は、勝との面会の中で、その豊富な海外の知識に驚かされるとともに、これからの日本の在り方、進むべき道についての話を聞いて心酔します。
勝は説きます。「日本はいたずらに外国を排除するのではなく、強い海軍をつくり、対等な閲係を築かなければならない」
龍馬は、勝のその言葉に動かされ、以後行動を共にするようになるのでした。
★坂本龍馬は神戸で海軍操練所の運営に携わる
文久三(一八六三)年九月、龍馬は活動の拠点を神戸に移します。
そして、勝海舟と共に近代的な海軍をつくろうと、航海術を学ぶ塾、海軍操練所の運営に携わりました、
一方で、元治元(一八六四)年七月十九日、京都で禁門の変が勃発します。
この戦いは、幕府を助けつつ、諸外国を迫い払おうという薩摩藩と、朝廷の権戚を復活させ、諸外国を迫い払おうという尊皇擁夷の長州藩との激突でもありました。
そして、この戦いで、長州はかなり大きなダメージを受けてしまいます。
さらに幕府は、第一次長州征討を命じます。この征討軍の中心となったのは薩摩藩でした。
この戦いで長州は降伏し、ますます薩摩への恨みを募らせる結果となりました。
★海軍操練所の閉鎖
このように、幕府の中に、反長州という流れがある中、龍馬の海軍操練所の塾生の中に長州藩に加担する者がいるのではと疑われます。
このため、幕府は、龍馬の海軍操練所を閉鎖するように指示があったのでした。
これにより、世界に通用する海軍を育て、日本を外国と対等にしようという龍馬の夢は砕かれてしまいます。
この頃、龍馬は家族へ宛てた手紙に、このように記載しています。
「日本を今一度せんたくいたし申し候」
これは、薩長同盟成立が成立する約三年前のことでした。
★坂本龍馬と西郷隆盛との出会い
元治元年八月、龍馬は勝海舟の紹介で京都の薩摩藩邸を訪れ、西郷隆盛と出会いました。
そして、龍馬は、自分たちに何ができるのかということを同じ土佐藩脱藩の中岡慎太郎らと議論を交わす中、薩摩藩と長州藩を結びつけることが日本に新しい時代をもたらすことになると考えるようになったのでした。
そんな中、慶応元(一八六五)年四月、幕府の動きが、第二次長州征討へ向かっていることが明らかになってきます。
そのような状況の中、龍馬は、薩摩と長州の同盟するように行動します。
まずは、西郷と共に鹿児島へ赴いて薩摩藩士たちと親交を結びました。
そして、次に長州藩の中心人物・桂小五郎に会うために下関へと向かいました。
桂小五郎に会った龍馬は、薩摩と長州とが同盟を結ぶことが必要である旨をときます。
そして、「一度、西郷と会ってはもらえないだろうか。それが長州のためになる」と懸命に桂を説得して、ようやく西郷と会うことを決意させたのでした。
そして、龍馬と桂は、下関で二週間、西郷を待ち続けます。
ところが、残念なことに、二人の前に現れたのは中岡慎太郎だけでした。
一緒に来るはずだった西郷は、急遠大坂へ向かったというのでした。
この西郷の行動により、桂の面目は丸潰れとなります。
このため、薩摩藩と長州藩の溝は更に深まる結果となったのでした。
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★坂本龍馬が再び西郷隆盛を説得する
龍馬は、西郷の突然の逃避行動とも思われる理由を確認するため、西郷に会いにいくべく、すぐに京都へ向かいます。
そして、西郷は、龍馬に対して、藩から長州への総攻撃を始めようとする幕府の動向を探るため京都へ向かえという命令が下されたことを告げたのでした。
しかし、西郷が確認したこの時点で、およそ五万の幕府軍が、江戸から長州に向け、進軍している状況でした。
つまり、幕府は、第一次長州征伐の主力ともいえる薩摩に相談することなく、第二次長州征討を決めていたのでした。
このため、薩摩藩は幕府に対して反感を募らせます。
そこで、次に龍馬の考えた策は、薩摩と長州の利害、利益を一致させて、実質的に結びつけてしまおうというものでした。
★坂本龍馬は亀山社中を設立する
龍馬は、薩長同盟の新しい糸口を探るため、長崎に新たな拠点(日本本初めての貿易会社「亀山社中」)をつくります。
龍馬は、貿易によって、実質的に薩摩と長州の両者を結びつけてしまおうと考えたのでした。
まず、長州は、幕府からの攻撃の危機にさらされており、外国製の最新の武器を必要としていました。
しかし、幕府が目を光らせており、長州と外国との貿易がチェックされることは明らかです。
これに目をつけた龍馬は、一度、薩摩藩の名義を借りて武器を購入し、それを長州に売ることにしたのでした。
また、一方で、薩摩は兵糧米が不足していました。
このため、龍馬は亀山社中を通じて、長州の米を薩摩に運んだのでした。
こうして龍馬は、薩摩と長州の間に、事実上の協力関係を築いていったのでした。
★「薩長同盟」を妨げる薩摩と長州のプライド
慶応元年秋、龍馬は、お互いのわだかまりが柔らぎ始めて、機が熟したと判断します。
このため、龍馬は西郷と桂の二人に対して、薩摩と長州が同盟を結ぶための会談を行うことを提案したのでした。
そして、慶応ニ(一八六六)年一月八日、西郷隆盛と桂小五郎が、京都で初めて出会います。
薩摩と長州は、ついに同盟に向けて歩み寄り始めたのでした。
ところが、その時、両者の仲介をするべき坂本龍馬は、まだ下関にいました。
天候不順で、龍馬が乗る船はなかなか出航できずにいたからでした。
そして、慶応二年一月十八日、京都の薩摩藩邸で、薩麿と長州の一回目の会談が開かれました。
出席者は、薩摩側は西郷隆盛はじめ七人、長州側は桂小五郎一人でした。
しかし、話し合いは抽象的な国家論に終始し、同盟の具体的内容を取り決めることはできませんでした。
すでに、幕府軍に取り囲まれていた長州藩は、同盟を拒む理由などあるはずないのです。
けれども、桂には、膝を屈して同盟を願い出ることはできませんでした。
会談の翌日、桂は帰国の支度を始めます。
一方で西郷にも、ただちに帰国せよと藩からの命令が下っていました。
龍馬が現れないまま、薩摩と長州の会談は決裂しようとしていたのでした。
そして、龍馬は、一月二十日、ようやく薩摩藩邸にたどりつきます。そして、薩長同盟の交渉が少しも進んでいない事実を知ります。
龍馬は桂小五郎が泊まっている屋敷に向かいました。
「桂さん、同盟はどうなりもうした?」
「何一つ、結ぶものはない」
この言葉に、龍馬は激しく問いかけます。
「私らが奔走しちゃるのは、薩摩のためでも長州のためでもない。天下の情勢が不安だからじゃ。しかるにおまんらはどうじゃ。せっかく首脳どうし顔をあわせながら、なんでもっと腹を割って話さんのじゃ」
すると、桂は龍馬に答えます。
長州が、危機に瀕しているこの時期に、自分から薩摩に同盟を持ちかけるのは、まるでこちらが援助を請うているようなものだ。
私から口を開くことはできない、というのでした。
これを聞き、もはや龍馬は、桂を問い詰めようとはしませんでした。
この期に及んでなお、自分の藩の体面へのこだわりが、薩摩、長州の同盟を妨げていたのです。
そして、そのちっぽけな面子が立つか立たないかということが、日本の行く末を危うくしようとしているのです。
一月二十日夜、龍馬は、次に京都の薩摩藩邸まで走ります。
西郷に対して、長州の事情を打ち明け、薩摩の側から話を持ちかけるように言います。
「今こそ、同盟を結ばねばいかんのじや、西郷さん」
西郷は、龍馬の申し出を承知してくれました。
★坂本龍馬の仲介で「薩長同盟」の成立
その翌日、龍馬の立ち会いの下、西郷隆盛と桂小五郎は再び会談に臨みました。
そして、西郷は、自ら同盟を持ちかけてくれました。
この西郷の同盟の持ちかけから、ようやく、幕末の日本を変える歴史が始まったのでした。
そして、薩長同盟成立後の慶応二年六月、幕府軍と長州軍との戦闘が始まりました。
しかし、薩摩の応援がない幕府軍の戦力は弱く、また、長州軍は、薩摩が代理で輸入してくれた最新式の武器で大奮闘をして、幕府軍を撤退させました。
この第二次長州征討の失敗は、徳川幕府の権威を地に落とす結果となりました。
世の中の流れが、幕府の崩壊は時間の問題と思われるようになったきっかけとなったのでした。
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★坂本龍馬の提案で「大政奉還」が行われる
その後、慶応三(一八六七)年十月十四日、龍馬の提案をもとに、大政奉還が行われます。
これにより、徳川幕府は、朝廷に政権を返上したのでした。
こうして、ニ百六十年あまり続いた徳川幕府はここに幕を閉じました。
しかし、その一か月後の十一月十五日、龍馬は、見廻組の手によって命を奪われ、三十三年の生涯を閉じたのでした。
龍馬の墓は、今、京都郊外、東山の高台にあり、毎年11月15日の命日には沢山の人が訪れます。
幕末の日本を駆け抜け、大きく歴史を動かした坂本龍馬。
常に走り続けたその姿は、今も人びとの胸の中に生きています。
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