白洲次郎は戦後の混乱期の中にあって、今後の日本の復興のために、通産省を立ち上げた人物です、
また、彼は、戦後に卑屈になりがちな日本政府の中にあって、「我々は戦争に負けたのであって、奴隷になったわけではない。」と周囲を鼓舞した人物でもありました。
彼の生き様を示すものに、次のようなエピソードがあります。
昭和二十(一九四五)年のクリスマスの日、GHQと政府各省庁との連絡のために設けられた終戦連絡中央事務局に、当時四十三歳だった白洲次郎が訪問します。
用件は、マッカーサー元帥に対して、昭和天皇からの贈り物を届けるためでした、
しかし、忙しそうなマッカーサー元帥は、白洲にいいます。
「適当にその辺にでも置いてくれ」
この言葉に、白洲は激怒します。
「天皇からの贈り物を、その辺におけとは何事か!」
その剣幕に、さしものマッカーサー元帥もあわてて謝ったといいます。
イエスマンばかりの日本政府の中で、はっきりものを育う白洲次郎は、GHQによって「従順ならざる唯一の日本人」と記録されていたのでした。
今回は、この白洲次郎についてご案内します。
目次
★白洲次郎の生い立ち
白洲次郎は、明冶三十五(一九〇ニ)年、兵庫県芦屋市の実業家の家に生まれました。
十九歳の時、イギリスの名門ケンブリッジ大学に入学します。
そして、昭和三(一九二八)年に帰国後、伯爵樺山家の令嬢、正子と結婚して貿易業に携わるようになりました。
こうして、海外を飛び回るような生活を送ることとなり、そこで妻の実家である樺山家と親しかった外交官・吉田茂と知り合います。
二人の年齢差は、二十四歳もありましたが、年の差を超えた友情を育んでいったのでした。
★白洲次郎は新憲法の草案づくりに涙を流す
昭和十六(一九四一)年、日本は太平洋戦争に突入していきます。
白洲は、日本の敗戦を予測し、やがて食糧不足になるだろうと見越していました。
このため、白洲は、妻・正子に「俺、農業をやるよ」と告げ、武蔵と相模の国境にある武相荘に隠棲して農作業に専念したのでした。
しかし、敗戦の翌月、吉田茂が外務大臣に就任すると、白洲は終戦連絡中央事務局の責任者として抜擢されます。
そして、新憲法の草案づくりなどに参画することとなったのでした、
白洲は、この頃の手記に、「今に見ていろという気持ち抑えきれず。ひそかに涙す」と記していました。
白洲は、GHQの主導でつくられたこの憲法こそが、敗戦国の厳然たる現実だということを悔しがったのでした。
★政権が安定しない状況
昭和二十一(一九四六)年五月、吉田茂が内閣総理大臣に就任します。
そして、白洲は、経済安定本部の次長に就任します。
しかし、昭和二十二(一九四七)年四月の総選挙の結果、社会党が第一党になります。
すると、白洲は、それを機に経済安定本部を辞め、再び野に下りました。
その後、 昭和二十二年六月、GHQの期待を担って片山哲内閣が発足しましたが、八か月で総辞職となります。その後、GHQは民主党の芦田均に内閣を引き継がせますが、贈収賄事件(昭電疑獄)が明るみに出て、十月に総辞職となりました。
このように、政権が安定しない中、世間の声は、吉田茂の政権返り咲きを求めます。
★白洲次郎とGHQ民政局との攻防
ところが、GHQ民政局はこの動きに反対し、吉田の総理就任を阻止しようと、吉田の率いる民主自由党の内部分裂の画策を始めたのでした。
この動きを知った白洲は、「これは内政干渉ではないか。GHQの職分を超えた横暴だ」と、憤慨します。
そして、GHQ内で民政局の独走に反発していた参謀第二部に接近します。
さらに、白洲は周到な根回しを行い、マッカーサーにGHQの総意として吉田総理で問題ないと確約させたのでした。
★白洲次郎が貿易庁長官に就任
そして十月になり、第二次吉田内閣が発足します。
吉田総理の一番の悩みは、経済復興にありました。
この大きな壁を打ち破るため、白洲を貿易庁長官に据えます。
貿易庁は、当時国営だった貿易を管理する役所でした。
白洲は、今度こそGHQの統制経済から離脱し、日本経済の自立を果たそうと覚悟を固めたのでしてた。
その後、白洲は、貿易庁長官の仕事をしていく中で、「たとえ厳しくとも自由経済の中で、日本の産業力を回復させるべきだ」と主張し始めます。
このためには、新たな省庁を作る構想が必要でした。
そして、昭和二十四(一九四九)年二月一日、孤軍奮闘する白洲に強力な助っ人が現れました。
★白洲次郎は日本経済発展のため通商産業省を立ち上げる
その強力な助っ人とは、アメリカ本国政府が派遇した経済顧問ドッジです。
ドッジは、GHQが指導してきた統制経済を、補助金とアメリ力の援助によりかかった危うい経済だと批判します。
さらに、ドッチは、日本は貿易を拡大することによって、国際経済の中で自立すべきだと唱えました。
白洲は、この意見を聞き、好機ととらえます。
そして、一気に新しい省庁の実現を目指したのでした。
その新しい省の名を通商産業省と名付けます。
そして、白洲は、省庁の枠を越えた全く新しい省庁を具体化していったのでした。
白洲が今までGHQに志を阻まれてきましたが、ようやく実を結ぼうとしていきました、、
そして五月二十五日、白洲の夢を乗せた通商産業省が発足しました。
通産省は、貿易立国を目指し輸出産業の育成を図るために、数々の産業政策を実施していきました。
その結果、日本の産業は優れた国際競争力を獲得していきます。
そして、戦後の荒廃から奇跡的な復興を遂げ、さらに高度経済成長を実現する原動力になっていったのでした。
しかし、白洲は通産省の指揮監督は行いませんでした。というか、白洲は、通産省の設立を見届けると、きっぱりと公職を離れ、政治の世界から去っていったのでした。
★白洲次郎が持つ愛国心と日本人としての誇り
昭和二十六(一九五一)年八月三十一日、サンフランシスコ講和会議に出席するため、吉田茂率いる全権団が出発しました。
この時、一民間人になっていた白洲次郎でしたが、吉田に請われて特別顧問として随行しました。
講和条約の受諾演説を行う二日前、白洲は、外務省が用意していた英語で書かれた演説原稿に目を通して顔色を変えてこう言います。
「講和会議というものほ、戦勝国の代表と同等の資格で出席できるはず。その晴れの日の演説原稿を、相手方と相談した上に相手側の言葉で書くパカがどこにいるか!」
原稿は急遮・英語から日本語に改められました。
また、演説の内谷も書き直されることになったのでした。
これぞ、吉田が求め、白洲にしか出来ない理論整然とした日本人としての誇りでした。
そして、九月七日、吉田による講和条約受諾の演税は、堂々としたものでした。
この調印式の晩に、人前でめったに涙を見せなかった白洲は、堪え切れなくなり、急に号泣したと伝えられます。
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★その後の白洲次郎
この後、白洲は東北電力の会長をはじめ、実業界の要職を担いながら、戦後の経済成長を支え続けました。
そして、昭和六十年、八十三歳でこの世を去ります。
「葬式無用、戒名・不用」という、型破りな人生を駆け抜けた男らしい遺書が残されていました。
次の言葉は、晩年、白洲が戦後の日本について語ったものです。
「私は、「戦後」というものは一寸やそっとで消失するものだとは思わない。我々が現在声高らかに唱えている新憲法もデモクラシーも、我々のほんとの自分のものになっているとは思わない。それが本当に心の底から自分のものになった時において、はじめて「戦後」は終わったと自己満足してもよかろう」