和宮は、弘化三(一八四六)年、仁孝天皇の娘として京都御所で生まれ、大切に育てられてきました。
そして、六歳の時には、皇族の一人と婚約して、そのまま京の都で平穏な暮らしを送るはずでした。
しかし、日本を揺るがす大事件が起こります。それは、黒船の来航でした。
アメリ力は、江戸幕府に開国を迫ります。
幕府は大混乱した上に、結局、開国を決めてしまったのでした。
この弱腰な幕府の姿勢に、批判が集中します。
そして、幕府の権威は、しだいに落ちていくこととなりました。
このような情勢の中、幕府は天皇家との婚姻によって権城を回復しようと動き出します。
いわゆる「公武合体」の政策です。
しかし、天皇家で年頃を迎えていたのは十五歳の和宮ただ一人だけでした。
今回は、幕末という時代の流れに運命を翻弄された和宮について、ご案内します。
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目次
★和宮は犠牲になった江戸行きを承諾
婚約者がいるにもかかわらず、別の人と結婚しろ、というだけでもビックリしてしまうのに、和宮の場合は、その嫁ぎ先が京都の皇室関係から江戸幕府の将軍に変わったのですから、真に青天の霹靂でした。
和宮は、京都の宮廷以外の世界をまったく知らないという理由で、将軍家への嫁入りを拒みますが、やがて、公家の岩倉具視の意見が和宮の運命を決定することになります,
岩倉は、「今はまさに皇国日本の危機と言えるでしょう。幕府の無力は明らかですが、あえて申し出を受け、和宮へ輿入れを勧めるべきです。」と主張します。
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そうすれば、政治の実権を隠然と朝廷に取り戻せるというわけです。
孝明天出は、この意見を入れて和宮の輿入れを決定します。
このため、和宮はやむなく江戸へ行くことを決意したのでした。
「惜しまじな 君と民とのためならば 身は武蔵野の露と消ゆとも」
朝廷のため、国を守るために我が身を犠牲とする、和宮は自らにそう言い聞かせて江戸行きを承諾したのでした。
★和宮の嫁入り
文久元(一八六一)年十月二十日、十六歳の花嫁・和宮の行列が京の都を出発しました。
行列本体の人数六千人、警備の人数がおよそ五千人、行列の長さは五十キロでした。
幕府は、この花嫁大行列で、公武合体の政策を広く世に知らせようとしたのでした。
そして、この大行列は、京都を出発してから二十七日目の十一月十五日、江戸に到着しました。
こうして、翌文久二(一八六二)年、将軍家茂と天皇の娘・和宮の婚礼が盛大に執り行われたのでした。
★和宮と将軍・家茂は仲の良い夫婦
将軍の妻となった和宮の住まいは、当然にして江戸城の大奥でした。
この時、大奥を取り仕切っていたのは、和宮にとっては姑にあたる天璋院篤姫でした。
嫁と姑の対立は、和宮が大奥に入ったその日から始まりました。
天璋院は、上座につき敷物の上に座って和宮を待っていました。
一方の和宮の席は、下座に設けられ、敷物もなく、畳に直に座らされました。
和宮のこれまでの経験の中で、宮中では考えられないこの待遇に強い戸惑いを感じました。
一方、天璋院は、この時に和宮から渡された土産品の目録を見て、大いに憤ります。
宛名が、「天璋院へ」と呼び捨てになっていたのでした。
和宮にとって、それは決して悪気があった訳ではなく、今までの天皇の娘としての当然のふるまいが、天璋院の神経を逆なでしてしまったのでした。
その後、和宮は江戸城大奥での暮らしに馴染むことができない日々が続いたものと思われます。
そんな和宮にとって、夫の将軍・家茂の存在は救世主でした。
元々、家茂は優しい性格で家臣にも慕われていました。
そして、家茂は公務の合間、よく和宮のもとを訪れては、様々な贈り物をしました。
和宮もこうした家茂の愛情に応えます。
ある日、庭に降りようとした時、和宮と天璋院の草履だけが踏み石の上にあり、家茂の草履は下に置かれていました。
それを見た和宮は急いで飛び降り、将軍の草履を上にあげ、おじぎをしたのでした。
そして、この出来事の以降、和宮と天璋院の間の諍いはぴたりと静まったと言われています。
和宮は、時の経過とともに、夫・将軍家茂との愛を深めていったのでした。
★和宮の夫で将軍・家茂の死亡
しかしこの頃、京都では反幕府勢力による暗殺が相次ぎます。
そして、岩倉具視などの公武合体派の公家たちは朝廷から一掃されてしまいました。
このため、将軍・家茂は、公武合体の気運を再び盛り上げるため、たびたび京の都に出向くようになります。
しかし、反幕府勢力は日増しに強くなっていくのでした。
そしてついに、幕府を倒そうとする長州藩と幕府との間に戦争が起こります。
家茂を総大将とする幕府軍は、長州藩に完敗してしまいました。
さらに、慶応二(一八六六)年七 月、和宮のもとに京都から家茂の死の知らせが届きます。二十一歳での病死したのでした。
この時、和宮も二十一歳でした。
二人が一緒に過ごしたのはわずか三年あまりの年月でした。
★和宮は髪をおろす
和宮は、夫・将軍家茂の死後、髪をおろして静寛院宮を名乗りました。
この時、和宮に対して京都へ戻るよう勧める声もありました。
しかし、和宮は、はるばる嫁いできたからには、徳川家のために尽くしたいと答えて江戸に残ったのでした。
★和宮の悲願,官軍を止める
慶応四(一八六八)年一月三日、京都鳥羽・伏見で幕府と薩摩藩・長州藩の連合軍が衝突します。
朝廷は、薩摩長州の軍勢を官軍と認めたことで、幕府は朝敵となってしまったのでした。
つまり、これは朝廷と幕府とが敵味方に別れて対立することになったことを意味しています。
和宮は考えます。何とかして幕府と朝廷の全面対決を避けなければならない、それには私しかいない。
そして、嫁ぎ先と実家の間を取り持つために、和宮は行動に出ました。
一月二十日、和宮は朝廷に宛てて一通の手紙をしたためます。
「徳川家が、後世まで朝敵の汚名を残すことは私にとって誠に残念なことです。何とぞ私へのお慈悲とお思いになり、徳川家が朝敵の汚名を残さぬよう、また徳川家をお取り潰しにならぬよう、身命に代えてお願いいたします。私としては、徳川家の滅亡を目にしながら生きながらえるわけにも参りません。そのような時は覚悟を決め、一命を惜しまぬつもりです」
そして、これに対して、返事がきます。
その内容は「寛大な措置は難しい。きっと徳川家の討伐が行われるだろう」という厳しいものでした。官軍は、すでに静岡県の金谷に到達していました。
翌日、和宮は東海道の官軍に、「朝廷に対し孝を立てて生きながらえれば徳川家に対し不義となります。しかし、徳川家への義理のために死ねば、父の帝に対し孝が立てられません。たいへん当惑しております」と記した手紙を送ります。
しかし官軍の進撃は止まりません。
三月十二日、中山道の官軍が江戸から二十五キロの蕨に到着します。
江戸総攻撃まであと三日に迫っていました。
このため、和宮はまた筆をとります。
「どうか、私の心中をお察し下さい。江戸に進軍なさるのを何とぞ今しばらくの猶予下さい」というその手紙は、中山道の官軍の指揮官に直接宛てられたものでした。
そして、三月十三日、中山道,板橋の宿で官軍は進軍を止めました。
そのとき、江戸までの距離はわずか十キロの地点でした。
そして、翌十四日、官軍の参謀・西郷隆盛と、幕府の重臣・勝海舟が和平の交渉の席につきました。
西郷は江戸城の明け渡しを条件に、江戸城総攻撃中止を決定します。
十八日、さらに和宮は江戸城内で、「ただただ神君家康公以来の徳川の家名が立つよう、謹慎を続けるように。抵抗さえしなければ徳川家が滅ぶことはないのです」と幕府の家臣たちに通達します。
和宮は家康の名を借りて家臣たちを説得し、戦争を避けようと最後の努力を続けたのでした。
そして、四月十一日、和宮の努力はついに実ります。
江戸城は、無事、官軍に明け渡されたのです。
江戸の町は戦火から救われました。
★和宮は徳川家を見届けて京都へ帰る
この年、元号は明治と改められ、江戸は東京と名を変えました。
日本は深刻な内乱を経ることなく、明治維新を成し遂げることになりました。
そして、無血開城の二か月後、徳川家は領地を大幅に減らされ、静岡に移されることになります。
徳川家の菩提寺である塘上寺には、この頃、和宮が実家に宛てて書いた手紙が残っています。
今度こそ京に帰るよう勧める朝廷に対し、和宮はこう答えています。
「上京をお勧め下さるのは誠にありがたいことです。しかし、徳川家が駿府に無事移るのを見届けるまでは、私は帰るわけにはまいりません」
翌年、すべてを見届け、和宮は京都に帰ります。
この時の行列は数十名のお供を従えた質素なものでした。
あの大行列からわずか八年後のことでした。
そして、明治十(一八八七)年、世が文明開化に沸く頃、和宮は三十二歳でひっそりとこの世を去ります。
亡骸は、増上寺で夫・家茂の憐に葬られています。
その遺体は、家茂の写真を抱いていると言われています。
動乱の時代、朝廷と幕府を結ぶ使命に生きた和宮。
その一生の思い出は家茂と過ごした日々だったのかも知れません。