新撰組の局長だった近藤勇は、慶応四(明治元、一八六八)年、中仙道板橋宿近くの板橋刑場で斬首されます。
そして、官軍は、近藤の首を江戸と京都で晒し首にしました。
新撰組の絶頂期、薩摩、長州の志士にとっては、新撰組は鬼門でしかありませんでした。
彼らにとって、多くの仲間が新撰組に斬られていった恨み辛みが、全てこの斬首、晒し首という形で現れたのでした。
しかし、近藤は決して犯罪者や極悪人であった訳ではありません。
近藤は、土方歳三とともに、新撰組の幹部として京都の治安維持のために、命を懸けてその任務を全うしました。
現在でいうと、警察のSAT(特殊急襲部隊)のような役割を担っていたといえます。
そして、近藤と土方の思いはただ一つ、「俺たちは武士だ。」という気持ちだけでした。
そして、彼らは時代の流れに逆らい、武士よりも武士らしく、そして自ら武士道を貫いて生きていきます。
今回は、鳥羽伏見戦い以降の新撰組局長・近藤勇のお話をさせて頂きます。
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目次
★新撰組も鳥羽伏見の戦いに参戦する
慶応四(明治元、一八六八)年一月三日、徳川氏を中心とする旧幕府の軍勢と、薩摩・長州を中心とする新政府の軍勢が京都でぶつかり、鳥羽伏見の戦いが起こりました。
旧幕府軍の中には百五十有余人の新撰組も加わっていましたが、激しい新政府軍の攻撃に敗退し、撤退を余儀なくされます。
その後、一月六日、旧幕府軍の部隊は態勢を建て直し、新政府軍に一矢報いよう徳川慶喜に出陣を願います。
しかし慶喜は、この時すでに新政府に抵抗せずに服従することを決めていました。
夜十時すぎ、慶喜はわずかな供をつれて大坂城を脱出して、翌朝、軍艦開陽丸で江戸を目指します。
近藤たちも軍艦に乗って、江戸へと落ち延びていくことになりました。
★近藤勇は甲陽鎮撫隊を結成する
江戸へ落ち延びた近藤のもとへ、甲府城へ立てこもって官軍を迎え撃てばどうかという案が持ち込まれます。
甲州は天然の要害です。
つまり、そこへ兵を入れれば江戸を守ることができる、という案でした。
このため近藤は、旧幕府軍の実権を握っていた勝海舟に相談し、甲陽鎮撫隊を結成します。
そして、慶応四(明治元、一八六八)年三月一日、甲府城を目指して出発しました。その兵力はおよそ二百。江戸城明け渡しの四十日まえのことでした。
★甲府城での戦いの敗戦
甲府城を目指す進路の途中には、近藤や土方歳三の生まれ故郷である多摩の田園地帯が広がっていました。
慶応四(明治元、一八六八)年三月二日、一行は日野に立ち寄り大歓迎されます。
しかし、その間に官軍が一足先に甲府に入り、甲府城を確保してしまいました。
三月六日朝、官軍は甲陽鎮撫隊に対して攻撃を開始しました。
その兵力は甲陽鎮撫隊の七倍以上でした。
この状況において、近藤は隊士たちと江戸で落ち合うことにして逃げ延びるしかありませんでした。
★新撰組の崩壊
三月十一日すぎ、江戸の一隅に身を寄せていた近藤のもとに、甲府城の戦いから逃げ延びてきた敗残の隊士たちが姿を現します。
永倉新八、原田左之助など、いずれも京都で苦楽を共にした同志でした。
永倉らは、近藤に会う前に、会津へ赴き、もう一旗あげようと協議していました。
一緒に会津に行ってほしいと頼む永倉に対し、近藤は「拙者はさようなわたくしの決議には加盟いたさぬ」と答え、さらに「ただし拙者の家臣となって働くというならぼ同意もいたそう」と続けます。
新撰組の組織は、局長などの役割はあるものの、あくまでも同志という立場でした。
それが、いきなり同志であったはずの隊士たちに自分の家来になれというのです。
その真意は何だったのでしょぅか。
主従関係による固い結束がなければ難局は乗り切れないと思ったのか、あるいはすでに死を覚悟し、あえて永倉たちを怒らせて自然にたもとを分かつよぅに仕向けたのでしょうか。
いずれにせよ、かねてから近藤には横暴なところがあると思っていた永倉らは、激怒して立ち去ってしまいました。
この決裂により、清川八郎の呼びかけに呼応して江戸をたち、京の都で旗を掲げてから五年、新撰組は崩壊することになったのでした。
★近藤勇が官軍に捕らえられる
官軍による江戸総攻撃の予定日は慶応四(明治元、一八六八)年三月十五日でした。
しかしそれに先立った勝海舟と西郷隆盛の会談の結果、江戸の攻撃は見合わせるということで合意していました。
一方、それを知らない近藤は、江戸郊外の五兵衛新田(東京都足立区綾瀬の付近)干葉の流山と移動し、官軍と戦う体制を整備します。
しかし流山には、新政府軍の大部隊が迫りつつありました。
四月三日、近藤たちは、新政府軍の陣営に責任者が出頭するようにという呼び出しを受けます。
官軍の兵力はおよそ四百いました。
一方、その時の新撰組の隊士のほとんどは演習に出ていて、近藤のもとにはニ、三人しか残っていない状態だったため、逃げることはできませんでした。
近藤は、かくなる上は武士らしく切腹して果てようと決心しましたが、土方はこれに猛反対します。
自分たちは官軍に歯向かうための軍隊ではなく、周辺の治安を維持するための部隊であると言い逃れ、時間稼ぎをすべきだというのでした。
このため、近藤は切腹を思い止まり、大久保大和という偽名を使って、言い逃れをするために投降します。
しかし、四月四日、板橋の東山道総督府に護送されてしまいます。
一方、土方は、近藤が時間稼ぎをしている間に、隊士たちを無事に逃がします。
そして、近藤の救出を頼みに勝海舟のもとへ向かいました。
また、その日は、江戸城には官軍の勅使が赴き、徳川家の処分に関する朝廷の決定が伝えられました。
それによると、徳川家の徹底した恭順の姿勢が認められ、徳川家は存続を許されるばかりか、慶喜も一命を助けられるというのです。
明治維新の流れは、大きく変わりつつありました。
★近藤勇は徹底して幕府に忠義を尽くし武士よりも武士らしく
一方、四月八日、東山道総督府で大久保大和、実は近藤勇への尋問が開始されましたが、すぐに正体を見破られてしまいます。
このため、土方が勝を通して解放してもらうという魂胆は崩れてしまいました。
そして、尋問が始められ、近藤は、流山にきたのはあくまで自分一人が慶喜の家来としての分を尽くすためにやったことだと主張しました。
また勝海舟との関係についても、関係ないと言い張りました。
勝は、徳川家の存続がかなわない場合、江戸市中に火を放ち、その隙に慶喜たちを逃がす計画を持っていたとも言われていました。
もし近藤が、勝との関係を明かしてしまえば、徹底して恭順の姿勢を示してきた勝や徳川家が疑われ、徳川家の取りつぶしや慶喜の処刑にいたることもありえました。
そうなれば、江戸が火の海になる可能性もあったかもしれません。
しかし実際には、近藤は主張を変えることはなく、夜になって尋問は打ち切られ、処刑が決定されたのでした。
慶応四(明治元、一八六八)年四月十一日、江戸城は平和裡のうちに官軍に明け渡され、徳川慶喜は水戸へ旅立つこととなりました。
その二週間後の四月二十五日、近藤は、武士として名誉ある切腹も許されず、浮浪の者として斬首されてしまいます。
享年三十五歳でした、
★近藤勇の辞世の句
近藤の首は江戸と京都で晒し首となりました。
また、死を覚悟していた近藤は、獄中で辞世を残していました。
「孤軍たすけ絶えて俘囚となる 顧みて君恩を思えば 涙,更に流る また 義をとり生を捨つるは 吾が尊ぶ所快く受けん電光三尺の剣 只将に一死ふは君恩に報いん」
一方、慶浦元(一八六五)年十一月、近藤は「万一の事もこれある節、小子の宿願、歳三氏へ篤と申し置き候。剣流名は沖田へ相譲り申したく、この段よろしく御心添えくだされたく」という手紙をしたためていました。
★苦楽を共にした土方歳三、沖田総司は?
この近藤の遺言ともいうべき言葉のとおり、土方は近藤亡き後も新政府軍と戦いを続けて各地を転戦、明治二(一八六九)年、北海道函館の戦いで命を落としました。
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また、沖田総司は江戸へ戻ってから持病の結核が悪化して療養を続けていましたが、慶応四年五月、近藤のあとを追うようにして病没したと伝えられています。
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また、江戸で近藤と離別した永倉新八は、各地を転戦した後、松前藩に帰参します。
そして、最後はケンカ別れとなってしまった永倉ですが、明治九(一ハ七六)年、近藤と土方を偲んで、その慰霊碑が近藤勇終焉の地・板橋に建てました。
そして、その場所には、毎年四月に、近藤勇の命日を記念する慰霊祭として、新撰組を偲んで多くの人びとが集まり、幕末の風雲を駆け抜けていった近藤の冥福を祈っています。