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★命日には坂本龍馬の墓に集まるファン
坂本龍馬と言えば、幕末が生んだ英雄として、ファンの方も多いと思います。
龍馬が亡くなってから、約140年が経ちましたが、その命日には今だに京都にある彼のお墓に手を合わせに来る人が絶えません。
しかし、悲しいことに彼は暗殺されてしまいます。
この暗殺には、黒幕等はいたのでしょうか。暗殺された経緯などはあるのでしょうか。
今回は、坂本龍馬の暗殺に前後する違和感、不信な点などについて御案内します。
★坂本龍馬の功績
龍馬の一番の功績だと言われているのが、それまで犬猿の仲だった薩摩と長州の手を組ませ、その力を利用して慶応3年(一八六七)、十五代将軍・徳川慶喜に大政奉還の建白書を提出させたことだと言われています。
これにより、幕府は朝廷に政権を奉還、徳川幕府は終わりを告げました。
また、海運業を中心とする日本最初の株式会社・亀山社中を設立したり、土佐藩の助力を得て討幕運動への参加を企図した海援隊を組織するなど、龍馬の活躍は時代の先を見たものがありました。
★坂本龍馬暗殺の場所
そんな坂本龍馬の死は思わぬ形でやってきます。
大政奉還からわずか1か月後の慶応3年(1867年)11月15日、龍馬は下宿先の京都河原町にある醤油商近江屋で、盟友の中岡慎太郎と酒を酌み交わしていたところ、「十津川郷士」と名乗る数人の刺客がやってきて、暗殺されてしまいました。
享年三十三でした。
★坂本龍馬 暗殺の犯人とその理由
坂本龍馬は、幕府だけでなく方々から命を狙われていたため、犯人を名乗った「十津川郷士」の正体に、さまざまな噂が流れました。
まず、当初は京都の治安維持に当たっていた幕府側の新撰組ではないかと言われていました。
しかし、明治2年(1869年)の箱館戦争で、新政府軍に捕らえられた今井信郎(いまいのぶお)という元京都見廻組の組員が、幕府の命令を受けて龍馬を暗殺したと自白しました。
このため、龍馬暗殺の犯人は、京都見廻組だと言われるようになりました。
そしてまた、幕府は、当時、龍馬のことを危険思想の持ち主として目の敵としており、幕府の治安維持組織であった京都見廻組の仕業だとしても不思議ではありませんでした。
★坂本龍馬暗殺には黒幕がいるのか?
しかし、ここで、この龍馬暗殺を自白した今井信郎の処罰に非常に違和感があります。
今井は自白したあと、「静岡藩預かりの禁鋼」という刑に処されたが、これは静岡藩がその身を預かるという軽い刑で、暗殺犯に対する処罰としては軽すぎます。
しかも、今井は、捕らえられた3年後の明治5年(1872年)には、特赦によって釈放されているのです。
これについて、今井の子孫は、西郷隆盛が今井の罪の軽減と赦免のため、政府関係者に強く働きかけたと証言しています。
えっ、どうして西郷隆盛が?
実は、今井とともに暗殺を決行した京都見廻組の組頭・佐々木只三郎は、もともと薩摩藩士と盛んに交流していたこともあり、西郷隆盛が罪の軽減に動いても不思議ではないところでした。
しかし、禁錮3年というのは、余りにも軽すぎます。
このため、一部の人の中で言われだしたのが、西郷隆盛が龍馬暗殺の黒幕ではないかという仮説です。
これであれば、全て話の辻褄が合うことになります。
★坂本龍馬暗殺の理由と真相
では、仮に、西郷隆盛が龍馬暗殺の黒幕として、その暗殺の理由は何しょうか?
確かに、西郷隆盛も龍馬も同じ討幕派ということには変わりありません。
ただ、西郷隆盛が武力で討幕を推し進めようとしていたのに対し、龍馬は平和的に改革を推し進めようとしていました。
しかし、大政奉還という平和的な改革から一か月が経過し、それだけでは本当の意味での明治維新が成し遂げられないことが明らかになっていった時期でもあったため、その思想の違いによる亀裂があっても不思議ではありません。
あるいは、討幕の主導権を握ってきていた薩摩藩にとって、急速に台頭してきた土佐藩が疎ましくなったため、その代表格の龍馬を消したということも考えられます。
いずれにせよ、真相は新しい史料などが発見されない限り、推測の域を出ないところです。
★最後に
前述の内容をまとめると次のとおりとなります。
・龍馬の暗殺者は、京都見廻組の今井信郎。
・しかし彼の処罰がとても軽く違和感がある
・彼の処罰を軽くしたのは西郷隆盛であると子孫が証言している
・では、どうして西郷隆盛が彼の処罰を軽くするのか?明白理由がない。
・仮に、西郷隆盛が龍馬暗殺の黒幕だったら辻褄が合う。
・けど、西郷隆盛が坂本龍馬に嫉妬するというのも違和感がある。